チャプレンメッセージ

2017年10月2017年10月01日掲載

新約聖書に、ヘロデという名のユダヤ王が何度か登場してきます。殊に有名な場面は、イエス様の誕生が知らされた折、自分の地位が脅かされるのではという不安から、二歳以下の男の子を殺害せよという常軌を逸した命令を出した場面です。
「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人々を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」というのが、マタイというイエス様の直系の弟子であり、福音書を後世に書き残した人物の記録の日本語訳です。
しかし、いくら王位が脅かされるとことを恐れたとしても、二歳以下の男の子に手をかけさせる行為は尋常ではありません。しかし、それ程までにイエス様が、当時のユダヤの最高権力者にとって脅威の的になっていたということでもありましょう。
このヘロデ王の心模様を題材にして作られた映画があります。その中、一人胸の内の思いを自らの心に語り掛ける場面があります。
「私は、清らかで美しく、透き通るような、あの女(聖母マリア)の歌声を聴くと、日々の盛大な宴会での乱痴気騒ぎや、この上ない程の贅沢な生活、手にしている権力に満ち満ちた人生が如何に虚しいものかということを、嫌というほどに思い知らされる。真の天国とは、この私が手中にしているものの中にではなしに、自分が迫害の的にしているあの聖なる家族の中にこそあるのではなかろうか?」と。しかし、ヘロデ王の心は一変し、王宮の窓を手当たり次第に閉ざし、マリアの声をかき消そうと必死になる姿へと転じていきます。
古く、日本語に「臭い物に蓋をする」という言葉があります。もちろん、人間に害を及ぼす悪なるものを閉じ込め、外に害あるものが漏れないようにすることは必要なことでもありましょうし、健康上や環境面からも否定できないことでしょう。けれども、もう一つの意味である、「根本的な解決をはからずに、一時しのぎの手段で他人に知られないようにする」という意味は、褒めたたえることはできません。
上記のヘロデ王は、自分の地位や権力を脅かすイエス様の存在を消すべく、蓋をするかのような行為に出ました。しかし、ヘロデ王にとって本来のなすべき事とは、自らの歪んだ心と真摯に向き合い、それを一時凌ぎではなく、永遠に封じ込めることにあったのではないでしょうか。自分のありようを問う聖母マリアの声に耳を閉ざし、心を閉ざし、王宮の窓という窓を閉ざすことではなしに、真の自分の姿、心と向き合うためにこそ反対に心の扉を開く事なのではなかったでしょうか。
私たちにとって心を開くことは、時に恐いことでもあります。しかし、閉ざされ切った窓の部屋の中に長時間居ると心身にどのようなことが生じてくるかを、私たちは経験上よく知っているはずです。心地よいどころか、一層の重苦しさを感じます。
私たちの属する日本聖公会の聖歌(第374番)の中に、「心の扉を開くと(中略)イエスさまのみ言葉が聞こえてくる」という歌詞があります。不安を持ちながらも開くことによって聞(聴)こえてくるのみならず、目が開かれ見え始めてくる、何かを感じ始める、解き放たれる、新鮮な空気を吸い込むことができる、そして何より光に浴し、人の温もりが注がれてくることを感じることにも通じるはずです。
大切なこと、素晴らしいこと、温かなものを聞(聴)き逃したり、見逃したりしがちなのは、開くことより閉ざすことに躍起になっているからかも知れません。現代、様々な窓がありますが、思いますに開ける方が閉ざすより楽な気もするのですが・・

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