チャプレンメッセージ

2018年12月2018年12月01日掲載

月日の経つのは早いもので、2018年も余すところひと月を切りました。この一年を振り返ってみますと、喜怒哀楽を引き出す様々な出来事がありました。楽しいこと、嬉しいことしかなかったと言えたら素敵なことですが、そうはいきません。心が重くなること、暗い気持ちになったり、させられたりすることも皆無ではありません。しかし、一日の最初の一言は明るい言葉を言ったり、思ったりすることに努めてみますと、それに続く言葉や気持ちも自然と前向きになりがちです。明るい挨拶、明るい笑顔など、人にだけではなく自分に向けることもできそうです。
前号の終わりに、あるホテルで目にした光景のことを記しました。重複しますが、若いフロント係の方が、作り物ではない温かみのこもった笑顔でチェックインする宿泊客に向かって「お帰りなさいませ」と語り掛けていました。宿泊中の客が外出から帰ってきた時ならともかく、明らかにチェックイン時のことでした。「いらっしゃいませ」という型通りの挨拶でない言葉に素敵なものを感じさせられました。もちろん多くの客はホテルに住んでいるわけではありません。しかし、単にゆっくり過ごしてほしいとの願いに止まらず、例え一泊か数日であっても、大切な居場所の一つであって欲しいとの心を感じさせられる言葉として聞いていました。
そして、この出来事は改めて「本当の居場所とは?」ということを考える切っ掛けにもなりました。居住地や建物、地図上の一点も居場所であるには違いありませんが、それ以上に自分が心から大切だと思える何か、できればいつもそばに、心の中にいてほしいと思う誰か、自分のことを心に留めてくれている誰か、自分を見出すことのできる何かが本当の居場所と言えましょう。さらに突き詰めていきますと、自分の存在を受け容れ、受け止めてくれる、私たちと同じ人間というところに行き着くのではないでしょうか。
かつて一世を風靡しました「千の風になって」という曲がありました。「私の居場所はお墓の中ではない、あなたの命の中です!」といった意味のことが歌われていたことを思い出します。喧噪慌ただしく、不信や不安が渦巻く中、年齢に関わらず誰もが自分の居場所、安心できる場所、地を出せる場所を求めています。そのような中で、ふと「あの人には居場所があっていいなぁ」と思う時もあります。しかし、そう思われているその人も居場所を求め、探し続けていることも案外あるものです。そして、自分もまた必死に居場所を求めて悩み、苦しんでいる、そういう自分を認めてもらいたいと願っている人たちもいます。
まもなくクリスマスがやってきます。聖書を繙きますと、イエス様のお誕生を巡る次の一文があります。「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と。驚くべきことに、聖家族には泊まる場所がありませんでした。そして、飼い葉桶という衛生面からしましても赤ちゃんを寝かすには相応しくない場所へと追いやられました。
けれども、イエス様は全ての居場所を奪い取られはしませんでした。神様の計り知れない愛と憐みの内に揺るぎない居場所がありました。そして、もう一つ忘れてはならないイエス様の居場所があります。それは、いろいろなものを抱えている私たちの心、命の営みの只中です。「You will never walk alone」、サッカーの応援歌としても有名になりましたが、「居場所とは?」へのヒントになるのではないでしょうか。

2018年11月2018年11月01日掲載

「楽譜に書いてある通りに几帳面にやって、規則に合ったことをやって、『はい、これで終わり』というような演奏会をされたら、みんなバカバカしくなって、音楽会に来なくなる」とは、世界に名だたる指揮者小澤征爾氏の言葉です。
規則ということで言いますと、小さい頃から親から、先生から、周りの大人たちから「規則正しい生活をしなさい」と何度も何度も言われたものでした。それだけだらしない子どもとして周りの目には映っていたからでしょう。確かに規則は大切です。ことさら集団生活に於いては、規則は大切であり、必要不可欠なものです。
けれども、同時に忘れたり、置き去りにしたりしてはならないリズムというものがあります。上述の小澤征爾氏の言葉にも重なるかと思いますが、ある特定の音だけを一秒間隔に出せば、至って規則正しい音の連続にはなるでしょうが、心に響くような美しいメロディーは生まれてはきません。但し、そのリズムも狂い出しますと、せっかくの美しい音楽も不快なものになりかねません。それは、時間の使い方や暮らしにも通じるところがあるようです。
専門的なことは分かりませんが、医療の現場に於いても「規則正しい」とか「規則正しく」という言葉が使われます。心電図や脈拍数などに当てられています。その一方で、健康をチェックしておられるドクターの方を見ていますと、データ尊重のドクター、真っ先に患者の顔を見るドクター、一瞬たりともと言えるほどに患者の目を見続けて話されるドクターなど様々おられます。そのような中で、「このドクターは信頼できるな、尊敬できるな」と思えるドクター方に共通しているように思えることとは、病気を抱えている人や不安を抱えている人を観(診)ているという点です。そして、治すことだけではなしに、癒すということにも心を注いでおられる様子がうかがい知ることができるということです。
癒しとは病気にかかった時だけのことではありません。そうではない日常の中でも求められ、大切にされます。私たちは通常辛い思いはしたくありません。苦しみからも遠ざかっていたいと願います。悲しい思いも、できれば避けたいものです。しかしながら、期せずしてそういう場面に遭遇したり、そういう心境になったりさせられもします。
けれども、辛い思いはプラスになる、苦しかったこと、悲しかったことがいつか必ず花開く時があるということを大分後になってから気付かされます。その時、辛いことや悲しいことは、幸せになるために必要なことであったのだ、ということも大分後になってから気付かされます。人間ゆえ愚痴をこぼすこともあります。弱音も吐きますし、涙も流します。そういう自分を優しく包み込むものの一つが真のユーモアであり、癒しに通じる道なのかも知れません。同時に、自分の大切な居場所を見出すことにもつながっていくようです。
あるホテルのフロントでのことです。チェックインをする客に向かってフロントクラークの女性が笑顔で「お帰りなさいませ」と声をかけている場面を目にしたことがあります。「いらっしゃいませ」より遥かに素敵なものを感じました。そこには、例え数日であっても我が家のようにゆっくり過ごしてほしいとの願いを、大切な居場所の一つであって欲しいとの心を感じさせられました。その光景を見ながら思いましたのは、本当の居場所とは、建物とか地図の上の一点ではなく、自分が心から大切だと思い、傍にいてほしいと思える人や心、自分のこと心に留めてくれる人や心、自分の存在を受け容れ、受け止めてくれる、本来人間に備わっている癒しの心の中なのでしょう。

2018年10月2018年10月03日掲載

2018年、私たち(の)香蘭女学校は創立130周年の感謝の時を迎えています。冒頭「の」の字をカッコで囲みましたのは、私たちの学びや働きの場である香蘭女学校という意味では「私たちの」となりましょうが、私たち一人一人が香蘭女学校そのものであるという意味では「私たち香蘭女学校」ということで、二つの意味を掛け合わせました。
その感謝、記念するべき中、多くの先生がたの奉仕と尽力により8月から約ニケ月間、立教池袋キャンパス構内にあります立教学院展示館にて、130周年の展示会が催されました。前日、7月31日午後にはオープンに先立ち展示館内で礼拝が捧げられ、多くの方々と祈りの時を持ちました。礼拝後、学院長であり、館長でいらっしゃる広田主教からのメッセージの中、「この展示館はオープンして5年になるが、礼拝を以て展示会を始めたの香蘭女学校が初めてです」という言葉があり、嬉しい驚きと感動をいただきました。
私自身、聖公会の学校で育ちましたが、子ども時代を振り返ってみますと、礼拝の折、今思い返しても恥ずかしいことですが「面倒くさい」「いつ終わるの?」「つまらない」、さらには不謹慎なことに「祈ったって何になる?」「祈りなんて気休めでは?」「所詮、祈りなんて綺麗ごとの羅列ではないか」と思ったりもしたものでした。
やがて時の流れとともに、ふと自分の祈りを振り返った時、「このようなことを神に祈るのは申し訳ない、失礼だ」などと一見謙虚そうな言い方ですが、勝手に取捨選択をし、祈りを神に献げるとは名ばかりで、その実は単なる独り言、自らの中だけの呟きとなってもいました。けれども、真の祈りとは心の内のありのままを献げ、差し出すものです。その模範を古くは、エジプトで奴隷の生活を強いられていたイスラエルの民を導き出したモーセや信仰の父と言われるアブラハム、新約の世界にあっては聖母マリアやイエス様の祈りに見て取ることができます。
ニューヨークのリハビリテーション病院の壁に次のような詩が書き残されています。「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」という祈りであり、信仰を告白した言葉です。
話が急に変わるようですが、かつてイギリスからの帰りの便で「あん」という、先日亡くなった樹木希林さん主演の映画を見ました。「ハンセン病」という重く難しい問題を扱っていましたが、見終わった後なぜか温かく、優しい気持ちにもなりました。その作品中、次のような台詞がありました。
「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だから何かになれなくても、私たちには生きる意味がある」「人生は見て聞いて感じ体験するために、少しでもいいもの美しいものを見たいし聞きたいし感じたい」「優しい言葉を聞いて優しい言葉を伝えたい」等他にもありますが、私たちが大切にしている祈りに通じるものを感じます。

2018年9月2018年09月01日掲載

世間では「夏休み」というものの、本当に休む間もなく「夏休み」を過ごしている人も少なくないように思えます。「とりわけ日本人は、休み下手」と言われたり、「休むことは悪であり、怠けることである」という受け取られ方をしたりということも無いわけではありません。その理由は数多あるでしょうが、一方では「忙しいという文字は、心を亡くすことである」という言葉に考えさせられるところ大です。また、自らを振り返った時、「本当に忙しいのだろうか?」あるいは、「単に時間の使い方が下手なだけなのだろうか?」「忙しいと思い込み、思い込まされているだけではなかろうか?」等々、これまたいろいろと考えこまされます。
ただ、心に留め、時に自戒しなければならないと思いますのは、「本当に忙しい人は、忙しいとは言わないし、無駄にバタバタと走り回らない」という言葉です。同時に、忙しいと思っている自分に酔ってしまうことも避けたいものです。
話が変わるようですが、今年も「中等科一年山荘生活」がクラスごと、二泊三日ずつで行われました。一部スタイルが変わったところもありましたが、単なる「お楽しみ会」ではなく、あくまでも教育プログラムである以上、それなりの効果も期待されますし、ことに生徒たちのこれからの生きざまの中に何かしら糧となるものが注ぎ込まれ続けることを願ってもいます。
その「山荘生活」は、朝8時頃に大型バスで学校を出発しますが、最初に行く所は軽井沢ショー記念礼拝堂です。それは、恰も「〇〇ツアー」さながらに名所を辿るとか、ミッションスクールゆえ、数多くの教会がある軽井沢に行ったからには教会の一つも巡らないと格好がつかないからという理由では全くありません。その礼拝堂聖別を司式されたのが、香蘭女学校創立者のエドワード・ビカステス主教だからであり、加えて、ガイドブックやインターネットでは知ることのできない豊かな、それもキリスト教信仰に根付いた話も伺う貴重な時間でもあるからです。アレクサンダー・クロフト・ショー司祭、エドワード・ビカステス主教、福沢諭吉先生といった名前も、伺う話の中に出てきます。生徒たちの心には新鮮な驚きや発見が芽生えたことでしょう。実際に話を伺うのは礼拝堂の椅子に座ってのことですが、「ゆっくりと佇む」思いがします。高速バスや新幹線、飛行機とは違い、ゆっくりした時間は視野を広げ、豊かに想像を膨らませてもくれます。目や耳や心を豊かに使って360度見渡せるような気さえします。見落としたり、聞き逃したりしてはならない時、人はゆっくりと佇むはずです。
今では様々な高性能映像機器が生み出され、実に鮮明な画像をプロでなくとも撮ることができるようになりました。大変便利になり、幾多の恩恵も被っています。夥しい数の写真を保存しておくことも容易になりました。「感動をプリントに!」というキャッチフレーズも浮かびますが、その折々に心に感じたり、驚いたり、感激したりしたそのものをプリントすること、機械に保存しておくことはできません。
換言すれば、見える何かを通して、その背後にある何かをも感じ取ることができた時、一層見える中に輝きが増してくるのではないでしょうか? 見える何かを通して見えない何かを見出し、感じる心を身に着けた時、人の人生により一層の深みと豊かさが増し加えられていくのではないでしょうか? 「見えないものなど信じているから心が乱されたり、不安になったり、振り回されるのだ」と言った人がありました。考え方は人それぞれでしょうが、見えるものだけにしか価値を見出せない、信じられないというのでは、どこか淋しい気もします。背景にある素敵な何かにも心を向けたいものです。

2018年8月2018年08月01日掲載

本来なら、毎日がそうでなければならいことですけれども、とりわけ私たちが暮らしている日本では、8月になりますと「平和」ということが強調され、マスコミをはじめ広く話題に挙げられます。また、様々な式典でのスピーチやメッセージの中でも「平和」という言葉が繰り返されます。
今を遡ること二千年前、既にイエス様は、「神様による平和」「イエス様自らが打ち立てられる平和」というものを再三再四言われ、形作り始めていかれました。冒頭に述べましたように、昨今、世界中で「平和」が語られない日は無いと言えますが、既にイエス様ご自身、政治問題としてでは無く、あくまでも神様の働き、命の出来事として「平和」を語られ、形作られました。したがって、当然のことながら「平和」を巡ってのイエス様の言葉も聖書に収められています。
この「平和」を巡って、もう二昔近く前のことになりますが、思い出すことがあります。当時、フィリピンのケソン市にありますローマ・カトリックの聖ドミニコ大修道院で研修をしていた時のことです。毎週水曜日の夕刻に「Fathers Gathering」と題した司祭たちの集まりがありました。毎回、聖書を基にその日の担当が会をリードします。四十人近い司祭たちですが、大学院で教鞭をとっている学者の司祭たち、留学経験豊富な司祭たち、現場での活動に従事している司祭たちと、各々の経験や学びに基づいて話をされます。分かり易く身近に感じられる話も少なくない中、スコラ哲学を完成させた、キリスト教世界を代表する神学者である「トマス・アクィナスの生まれ変わり」と言われていた老司祭の話は、申し訳ないことにチンプンカンでした。
そのような中、上述の「平和」が話題となり、「日本語でPeaceとは何というのか?」との質問を受け、「HE・I・WA」と答えたのを思い出します。すると、さらに「では、そのHE・I・WAは、どのような意味か?」と尋ねられ、はたと困った時、口から出任せのように発したのは、「確固たる、揺るぎない命の秩序と調和」というものでした。
キリスト教の歴史を振り返ってみますと、とりわけ中世という時代には、十字軍、魔女刈りや宗教裁判、ユダヤ人迫害,イスラム教への攻撃、キリスト教内部での争い等々、枚挙に暇が無い程でした。それらの出来事の中は、揺るぎない命の秩序、調和とは凡そかけ離れた、あるいは正反対といっても過言ではないものでした。
そのようなことへの深い反省も込めてのことでしょうが、嘗て、世界中から宗教者が集まった際にこういうことが言われました。「人類は、一人一人が自分以外の人とも平和に暮らしているので無ければ、本当に平和とは言えない。そして、その平和の源とは、一人一人の中での自分との闘いにかかっている!」と。歪んだエゴイズムと闘い、頑張って乗り越えていく勇気は、並大抵のものではありません。けれども、過去に学び、今、そしてこれからを思います時、真の平和とは、安逸な事を貪りがちな自分、自分の利益を常に優先させたがる自分、秩序を乱しがちな自分との闘いを抜きにしては得られ難いということに気付かされます。
また、毎日の生活の中で八方塞がりとしか思えない時、祈り、黙想しても穏やかになれず、心乱れ、重苦しさだけが増すばかりの時もありますが、そのような中、(奇妙な言葉遣いですが)シッカリと苦しみを受け止めようとする時、案外何かが見え始めてくるという不思議なことも起こり得ます。
現ローマ教皇フランチェスコは言われました。「架け橋でなく壁を築こうとする者はキリスト教徒ではない!」と。小さくとも、平和を築く一人一人でありたいものです。

2018年7月2018年07月01日掲載

多くの教会やミッションスクールの校舎の壁、(本校は未だありませんが)教室には十字架が掲げられています。今でこそキリスト教のシンボルとされ、さらにはアクセサリーとして世代を超えて人気あるものに数えられています。しかし、十字架はキリスト教の発明品ではありません。したがって、現在のように教会などに十字架が掲げられ、飾られる。ということはキリスト教の初期の時代にはありませんでした。むしろ、十字架は古く紀元前からありましたし、ローマ帝国にあっては主に政治犯の処刑に使われるものでした。そのことから、「縁起でもない」「恥の象徴」と言われても否定できないものでもありました。そのような背景を持つ十字架の意味を180度変えたと言っても過言でない、それが、イエス様が引き受け、担われた十字架であり、その中身でした。
キリストの教会でも「十字架=重荷」という言われ方はあります。キリスト教の言い伝えの中では、十字架の横棒という重荷を担がされ、ゴルゴダという名の処刑場所へ向かわれたイエス様は、その重荷に耐えかねて三度転ばれたと言われていますし、大斎節(受難節)に行われます「十字架の道行」という礼拝の中ではその場面があり、黙想のテーマにもなっています。
今でこそ、その礼拝にも参加し、聖書も子どもの頃よりは少しばかり分かってきた気がしていますが、当初この場面を見聞きした時、不遜にも思いました。「申し訳ないけれど、イエス様って情けない」「イエス様なのに、何で十字架を負いきれないの?」「何でイエス様ほどの人が十字架の重荷に耐えられず転び、無様なありさまを人目に晒し、さらに情けないことには、その十字架を他人に担いでもらい、やっとのことで処刑場に辿り着けたとは!」、その後には「ガッカリ」「失望」「頼りがいが無い」などの言葉が心を過りました。しかしながら、これ程非キリスト的であり、反聖書的な発想はありません。加えて、これ程イエス様の心を無視し、踏みにじっていると言っても過言でないものもありません。
情けないことに、事の真意が分かるようになってきたのは大分経ってからのことでした。あの一見情けなく見えるイエス様の姿が発しているメッセージとは、「転ばぬように、転ばぬようにと心がけ、歯を食いしばって頑張ることも大事かもしれないが、人は誰だって重荷に耐えかねて転ぶことはある。大事なのは、転んだ後どうするかであり、辛い時には誰かの力を借りてもいい、求めてもいい、担ってもらっても構わない、一人きりで抱え込まなくてもいい、そして、いつか自分が誰かの重荷を担い合う者になればいい、それが人と人との繋がりなのだから」というものではないでしょうか。
一事が万事甘えさせるとか、人への押し付け、丸投げは褒められることでも、勧められることでもありませんが、時として甘えさせてあげる優しさがある一方で、変な言い回しになりますが、人に甘える優しさのようなものもあるのかも知れません。ともすれば、「甘え」「甘える」という言葉は否定的に捉えられることがありますし、過剰な異存は如何なものかとは思いますが、しかし、相手への信頼の証になることもあります。幼子たちから教わることでもあります。
「転ばせない教育」が全くの無駄とは思いませんが、「転んだら負け」の教育は、しばしば傲慢さという優しさを欠いた心を生み出しかねません。それよりも、転んでしまったことで得る何かがある、例えば痛みを感じる心、転んだ人への共感、差し伸べられた誰かの手や心の温もりへの感謝のほうが、より豊かな糧となるのではと感じます。ちなみに、イエス様が担われた十字架の中身とは、誰かの重荷、痛み、心でした。

2018年6月2018年06月01日掲載

つい二か月程前、高等科三年生を送り出し、ひと月半前には新入生を迎え、その後オリエンテーション、運動会と続き、夏休みも遠い先のことではなくなりました。
6年間という時間は、計算機を使ってみますと、閏年を除いても2,190日、時間にしますと52,560時間、さらに分にしますと315万3600分、秒にしますとなんと1億8921万6000秒という、「1、2、3・・・」と数えていたら気の遠くなる数字が計算機画面に浮かび上がってきます。しかし、ただ数えているだけで6年間という尊い時間を過ごすのはあまりにも勿体ないことですし、そもそも時間を数えることが大切な場合もあるでしょうが、時間は使うもののはずです、しかも、出来る限り心を込めて。
ちなみに、私たちは数字と無縁に、あるいは全く数字を目にせずに過ごしている日はありません。時計、カレンダー、点数、平均値、健康診断でも数字を目にします。もちろん、たくさんの恩恵にも与っていますが、必ずしも恩恵ばかりとは言い切れません。事件や事故に繋がるケースも否定できません。そのように両面を見てみますと、数字で測ることによって素晴らしい何かに通じること、正確に物事を把握でき、さらにはそれが未来へ繋がる大切なことがある一方で、数字で測ることのできない物事、あるいは数字で測ってはいけない時間もあります。
喜びや悲しみ、ことに命の時間、それは安易に数字で測る訳にはいきません。加えて、「宗教教育とは、命の時間の使い方を学ぶこと」であると思っていますし、願ってもいます。また、一生残るもののために費やす時間こそ、時間の最も大切な使い方であると言えましょう。
話が突如変わるようですが、一学期始業式の礼拝後には毎年、全生徒に向かって話をする機会があります。この四月は、学年ごとに向けての短いメッセージを伝えました。事細かに書き記すには紙面が足りませんが、以下に記してみます。
入学したての一年生には「チャプレンの話が全て聞き取ることができるようになった時が本当の卒業の時、けれども本当に大事なことは何を聞いたかではなく、どう聴いたか、どう聴こえたかである」と。二年生には「後輩が入ってきて、ちょっとお姉さん気分になったことでしょう。でも、(個人的には嫌いな言葉であるが)反抗期という言葉が当てはめられがちな学年だけれども、寧ろ自分と闘っていながら、まだ闘い方が分からない、言葉にできない時期でもあると思う。しかも、それは未来に繋がる闘いでもある」と。三年生には「何かにつけ気の抜けやすい時期とも言われるけれども、『気を緩めるな!』『気を抜くな!』と縛り付けるだけでなく、時に緩めることも大切。なぜなら、「緩む」と「赦す」とは関係のある言葉で、それは自己受容にも通じることと思えるから」と。四年生には「四月から二階席に移動したので、上から目線で見られているような気がするけれども、日常でも上から目線はダメ、なぜなら等身大の自分を見失うから」と。五年生には「種々の活動で責任を担う学年になる。責任とは応答する能力と言われるが、応答とは響き合うことである」と。最高、最終学年の六年生には「進学が気になるものの一つであり、目の前のことをしっかりと見つめることも大事だけれども、目の前のことだけだと世界が狭まる。(中略)目の前の問題ばかり見ていたら、解決が遠退くこともある。誰もが見えないと思っているものを見てほしい」と。
晴れの日もあれば、曇りの日もあれば、雨の日もありますけれども、日々の成長を祈りつつ、キリスト教のキーワード「Becoming」が心に沸き起こってきました。

2018年5月2018年05月02日掲載

小さい頃、余程のいたずらっ子だったからでしょうか、よく言われました。「普通の子は、そのようなことはしませんよ」と。大抵、馬耳東風でしたが、懐かしく思い返してみますと、そもそも「普通の子」って何だろうと思います。平均値なのだろうか、最大公約数なのだろうかと思う一方で、人間をそのように見て取ることは良いことなのだろうかという大きな疑問も浮かんできます。
そもそも、人間は十把一絡げではありません。気付いているか否かはともかく、個々に素晴らしい何か、尊い何かを授かっているはずです。「しかし、でも」と言いたくなることもあります。実は今もですが、これまた幼い頃を振り返ってみますと、とにかく勉強嫌いでした。従って、成績も悲惨なものでした。落ち着きもない子でした。人前で話すのも苦手でした。従って、周囲の大人がどう言おうと、自分は素晴らしい何かを授かっている人間などではない、劣った人間だと、子ども心なりに思っていました。しかし、そういう発想を根底から否定しているのが聖書でもあります。だからと言って、素晴らしい、非の打ちどころのない人間だと言っている訳ではありませんし、欠片程にも思ってはいる訳でもありません。
そのようなことではなしに、今ここに生き、生かされている、そのこと自体が尊くて素晴らしい、奇跡であると言っても過言ではないということです。ちなみに、その道の専門家に伺った話ですが、世界中の全財産を注ぎ込んでも、単細胞一つさえ満足に創ることはできないそうです。そうであるならば、生命体が今ここにあること自体、驚くべき奇跡と言えましょう。
わたしたち人間は約60兆の細胞からなる体を授かっており、さらに一個の細胞に含まれている遺伝子情報は30億の化学文字で書かれているそうです。これは1000ページの本約1000冊分、聖書に換算しますとゆうに400冊以上になります。そのような私たち一人一人は、人類の歴史始まって以来、この世にたった一人しかいません。兄弟や似ている人、仲間は数多いても、他でもないこの自分は一人であり、まさに掛け替えのないものです。ちなみに、掛け替えのないとは、「いざという時に代わりになるものが無い、この上なく尊く、大切な」という意味があります。
ちなみに、食べ物でも、宝石でも、高い値段が付けられているのは、たくさん採れないからだそうです。希少価値等言葉がありますが、人間は希少価値どころか「1」です。人から聞いた話ですが、宝石ということで言いますと、真珠は高価であると同時に人気があり、正装時にも用いられます。海の中の真珠貝には砂や石が入りジャリジャリ感や異物感があることでしょう。しかし、それを排除するのではなく、自分の中から出される溶液で包み込みながら、やがて美しい真珠になっていくそうです。
辛い時、苦しい時、つい誰かのせいにしたくもなります。しかし、真珠のように辛さや苦しみさえも自分の一部にしてしまい、上手く付き合っていくことも出来得るのが人間かもしれません。そして、時間をかけて、いつしかそれらを自分の中の真珠としていくこともできます。そして、その中で背負ってきた痛みは、いつの日か他の誰かの思いに心を寄せることのできることへと通じていくものとさえなりましょう。
そして、真珠が一粒一粒違うように、人はその人にしかないもの、更に言いますならその人だからこそ授けられている輝ける何かがあるはずです。「そんなものなどない!」と決めつける前に、「それはいったい何だろう?」と思い巡らし、時には誰かの手助けを受けながら探し求めていくほうが、遥かに生産的であると言えましょう。

2018年4月2018年04月01日掲載

小さな子どもたちに「イエス様って、どんな方だろう?」と尋ねますと、殆どが「優しい人」「愛情深い人」「心の広い人」「奇跡を起こせるすごい人」という答えが返ってきます。決して的外れではありませんし、私自身、小さい頃は同じように思っていました。
また、イエス様の一番弟子と言われるペテロにおいては、「雄々しく、頼もしいリーダー」というイメージをもっていました。
しかし、年を重ね、聖書を読み返してみますと、子どもの頃に持っていたイメージとは違うイエス様の姿、ペテロの姿が浮き彫りになってきました。
ちなみに、今年のイースター(復活日)は、グレゴリオ暦に基づいています私たちの教会では4月1日、ユリウス暦に基づいている東方教会では4月8日になります。そして、イースターまでの一週間を「聖週」と言いますが、その中でも特にイエス様によって「最後の晩餐」が主宰され、その中で大変重要な教えを弟子たちに伝えられ、仕えることの模範としてイエス様が率先して弟子たちの足を洗われたことを記念する聖木曜日、イエス様が十字架刑を引き受けられた聖金曜日(受苦日)、お墓に納められているイエス様を黙想する聖土曜日は「大いなる(聖なる)三日間」と言われますが、これを経て初めて復活日を迎えます。
最後の晩餐を終えられたイエス様は孤独の内に祈られますが、その中身は「できれば十字架で磔にされないですみますように」というものでした。また、十字架を担がされゴルゴダという処刑場へ向かう際、別の人に担いでもらいました。十字架の上でも成す術無しかのようなイエス様の姿がありました。
一方、後に大使徒聖ペテロと呼ばれ、イエス様から直々に教会の礎となるべく命じられ、歴史的には初代ローマ教皇とされるペテロは、散々心を寄せ、砕いてくださったイエス様を裏切ります。十字架へ向かわれるイエス様に指一本貸すこともできなかったどころか、「イエス様など知らない、赤の他人だ」と公言してしまいます。
冒頭に記しましたイエス様やペテロのイメージからは、対極にあるともいえるような姿を聖書はそのまま伝えています。読み手は、意気消沈させられるかも知れません。「期待外れだ」と嘆かれるかもしれません。けれども、なぜここまでして聖書がこのような出来事を包み隠さず後世に伝えているか思い巡らしてみます時、数多のことが言えましょうが、一見弱く見える姿の中に秘められている真の強さ、別名優しさが厳然としてあることに気付かされます。
偽りの優しさを向けられても「何か変だ」「どこか違うのでは?」「優しいようだけれども、なぜか心に響かない」と思うこともあります。かつて神学生の頃教わった歌のフレーズですが、「偽りの微笑と、見せかけの涙だけはやめて、やめてください あなたの心に素直になってください」というものでした。何十年も前に耳にした歌詞が今、鮮やかによみがえってきます。難しいことですが、本当の優しさと偽りの優しさ、一見誠実さを纏った狡さ、自らの犠牲を厭わない人、己の利得のために人を平気で利用する人等々、実に様々です。
話があちらこちらにいきましたが、イエス様の強さや優しさ、それは本当の愛を貫かれたことから生じるものです。裏切りにもかかわらずトコトン愛を注がれ続けたペトロは、真の愛の何たるかを理屈を超えて体得したことでしょう。この経験なくしては、愛も頭の中だけの善悪で判断しかねません。頭で考えた愛は、体験から生み出される愛とは違う愛のはずです。

2018年3月2018年03月01日掲載

キリスト教という宗教を創ろうとか、キリスト教徒(クリスチャン)を作ろうというつもりで、イエス様は活動を始めたわけではありませんでした。今でこそキリスト教は世界三大宗教の一つであるとか、イエス様の教えを大切にし、それに倣い、従おうとする人たちのことをクリスチャンと呼んでいますが、それらは自分たちが名付けたのではなく、むしろ名付けられたものでした。聖書はこのことを「アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と記録しています。
そもそも、当初イエス様を交えてわずか13人で始まった働きは、今では22億ともそれ以上とも言われています。しかも、弟子たち12人は聖人君子の集まりではありませんでした。寸分の疑いもイエス様に対して持たなかったわけでもありませんでした。内々での権力闘争もしました。挙句の果てには、イエス様を裏切りもしました。
それにもかかわらず、肝心のイエス様の方はといえば、裏切りの後も弟子たちを見捨てもしなければ、見限りもなさいませんでした。それどころか、神の力、命の息吹を注ぎ込み続けられながら、依然としてご自分の弟子として尊い務めを託されました。
世の中に「チームワーク」という言葉があります。この言葉から、「まとまり」「仲良し」「助け合い」といった言葉も浮かんできます。けれども、今一度イエス様を中心とした弟子集団のことを思い浮かべてみますと、ある時点まではまとまりがあったとは必ずしも言い切れません。いつも和気あいあいとした仲良し集団とも、いつでも自らを犠牲にして助け合っていたとも言い難いところがあります。
しかし、イエス様が大事にされたチームワークとは、ある目的のために個々人が託されている責任を果たすこと、役割分担がきちんとなされ協働していくことでした。ご自身が一人で全てをなさった方が遥かに正確、迅速、完璧であったことでしょうが、それをなさいませんでした。ミスを仕出かし、自分中心的な弟子たちを諦めることはなさいませんでした。常に、一人一人の賜物に目を向けられ、引き出し、用いることに専心されました。であればこそ、後に聖人と言われるような人々、殉教をも厭わない人々が生み出されていったのでしょう。
スポーツの世界でも、優位に立っている相手が「ひょっとしたら逆転されるかも」「相手はこのまま劣勢ではいないかも」と少しでも思い始めると余計なプレッシャーを生み出し、無駄な力が出始めます。そして、ついにゲームを引っ繰り返されることは珍しいことではありません。自分のことだけにしか目が行かず、焦りが生み出されるものの、余裕を失い始めます。そして、最後には諦め気分が心を占め始めさえします。その瞬間、ゲームは決まったと言ってもよいのかも知れません。
ある時までは大言壮語をしていながら、十字架を目前にされたイエス様、十字架の上のイエス様を裏切った弟子たちに対して、イエス様の心中には「また裏切るかも」「また逃げるかも」という発想は見出せません。ただ一人、イエス様をお金で売り渡したユダに対してだけは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われましたが、
他の弟子たちには彼らの裏切りを予告さえされましたが、徹底してご自身の傍に置き続けました。
ちなみに、図らずも2月の聖句が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロの言葉であり、私事的には好きな聖句の一つですが、一時は弱さをごまかし、強さを演じていた弟子たちでしたが、諦めることをなさらないイエス様に徹底的にこの聖書の言葉を胸に刻み付けられたことでしょう。

2018年2月2018年02月01日掲載

日本語に限ったことではありませんが、同音異義語というものがあります。例えば、日本語で「ハシ」と発音する言葉は、地域によってイントネーションの違いはあるものの、聴き分けが難しい言葉にあげられましょう。「橋」「箸」「端」「梯」といった具合に、漢字で書いてもらえればすぐに区別が付きますけれども、音だけ、あるいは平仮名、カタカナ表記だけでは、どれに当たるのか分かり難いところがあります。
ちなみに、日本語で一番多い同音異義語は、「コウショウ」だそうです。「交渉」「厚相」「考証」「高尚」「興商」「公証」「口承」「校章」「交唱」「工匠」「哄笑」等々、五十近くあるそうです。それだけで紙面が埋まってしまいそうな程です。確かに、音だけでは区別が付き難いですが、例え文字にしなくても話の流れをきちんと聴いていれば区別ができます。文脈をきちんと辿っていれば、その中で理解はできます。
ある時、同音異義語ではありませんが、それに通じるようなところのある話を伺ったことがあります。今は電気ポットが多い時代ですので、ガスでお湯を沸かすことは珍しくなりましたが、「お湯を沸かして」と親が頼んだところ、頼まれた子どもは薬缶に水を差し、ガスに火を点け、その上に薬缶を置き、換気扇を回し、キッチンの灯りを点けたそうです。そして、いざお湯が沸くと、ガスを消し、煮えたぎったお湯の入った薬缶は持ってきたものの、換気扇と灯は点けっ放しであったという話です。
「電気代が勿体ない」という方へ話を向けることもできますが、お湯を沸かすという行為は確かに、そして忠実に行いましたが、それに伴うつながりが切れている、セットでものを考えられなかった点に目を向けることもできます。特段悪意があったわけではないでしょうが、物事や出来事をピンポイントで見ることの大切さと、一方脈絡や繋がりを重視しなければならないこと、そのバランスや、TPOでの使い分けの難しさと大切さというものを考えさせられた話でした。
しかし、考えてみますと、私たち人間は、あるいは人間に限ったことではないかも知れませんが、この世に生を受けた瞬間から、ひょっとするとその前から、命の誕生は繋がりの中で始まるのではなかろうかと。そして、その後も、時には一人静かに時間を過ごしたいと願うこともありますものの、突き詰めていけば、私たちは誰かとの、あるいは自然や、社会やそこでの出来事との繋がり無くしては生き難いはずです。繋がりの中に生まれ、繋がりの中で成長し、楽しく嬉しいこと、反対に辛く悲しいことも経験します。同時に、その繋がりの中で力を与えられたり、勇気付けられたり、癒されもします。
確かに、「繋がりなど面倒だ、鬱陶しい」という声もあります。そう思ってしまう時もあります。けれども、そのような声を字句通りに受け取る前に、あるいは心を痛める事件や出来事を耳目にする度に、むしろそのような声や出来事は、心のどこかで繋がりを必死に求めているサイン、叫び、悲鳴として聴き取ることもできるはずです。
「聖歌隊の指揮者にとって最も重要な任務は、大声を出して歌う人や、音を外している人に注意を与えることではない。その任務とは、声の出ていない人、聴き取れないほどの小さな声の人の存在を、敏感に感じ取るよう努めることだ。そして、『あなたの声が聴こえなければ、この聖歌隊は無いほうが良いのだ』と語りかけることなのだ」と。これは、ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教の説教の一部です。
声を出せずにいる者、かすかな声で癒しと救いを求めている人に耳を傾けようとし始めるなら、こういうメッセージを返すことができるでしょう。「YOU WILL NEVER WALK ALONE」と。キリスト教の根幹に関わるメッセージです。

2018年1月2018年01月01日掲載

1944年、フランス内陸部を偵察のため出発後、地中海上空で行方不明になった人物がいます。飛行機の操縦士であり、作家として、かの有名な「星の王子さま」の著者であるアントワーヌ・ド・サン・テグジュベリです。この方の著書の中に「人間の土地」と題するものがありますが、その中に「真の贅沢というものはただ一つしかない。それは人間関係という贅沢である」という言葉があります。
確かに、豊かな人間関係とは生活や心を豊かにしてくれます。しかし、同じ人間関係に疲れたり、傷ついたりすることも皆無ではありません。「人間関係で悩む」という言葉もありますが、ともすれば「人間関係の何たるかがわからない」様子も見受けられます。もちろん、物心両面にわたる豊かさはありがたいものですが、その豊かさが度を超え、分別を弁えなくさせられる時、それは豊かさと言うよりも大切な何かを失わせる恐ろしいものへと転じていきます。
人間関係ということで言いますなら、そもそも人間、気の合う人ばかりが世の中にいる訳ではありません。価値観の大きく異なる人もいます。何となくそりの合わない人もいます。そのような中、三千年ほど前に聖書をしたためた人たちは、こういう一文を残しました。「人が独りでいるのは良くない」と。この短い文言の真意とは、人が独りでいることの良し悪しのことと言うよりも、「人は独りきりで成り立ちますか?」「独りの力だけで生きていかれますか?」という問いかけであると言えます。そもそも、私たちはこの世に生を受けた瞬間から誰かとのつながりを持ち始め、その中で様々なことを経験したり体験したりしながら命を育み、成長していきます。もちろん良いことや気に入ることばかりではありませんが。
タイという仏教の国で作られた、世界中で何度も動画再生されました心打たれるコマーシャルがあります。タイは、国民の九割以上が仏教徒と言われる程の仏教国であり、施しの精神を大切にしています。そのタイで作られたコマーシャルですが、冒頭、貧しくも、温かみを感じさせられる食堂を営んでいる父娘が出てきます。
ある日、向かいの薬品店で鎮痛剤3パックと野菜スープを病気の母親のために万引きしてしまった少年が、その店主に捕まりました。食堂の店主は、少年が咎められているところへ仲裁に入り、少年の家庭事情を知り、幾何かのお金を代わりに払い、少年を救います。その後も貧しく食べ物を求めに来る人へ、店主は当然のように店の売り物である食べ物を恵み続けます。
そして、時は流れ30年が経ちますが、店主は仕事中に病に倒れます。貧しい父娘家族にしてみれば莫大とも言える入院治療費がかかり、なかなか意識の戻らない絶望的な状況の中、娘はついに店を売り出す決心をします。ある日、父の横で居眠りをしてしまった娘のもとへ医療費支払書が置いてあり、そこには「請求額は0、治療費は30年前に支払済み」と記されています。担当医は、30年前病気の母親のために盗みを働いてしまった少年でした。
この話は、ある実話に基づいているそうですが、最後に次のようなテロップが流れます。「Giving is the best communication」と。直訳をすれば、「与えることは、最高のコミュニケーション」となりますが、次のように言葉を重ねたいと思います。「与えること、ありがたくいただくこと、与え合うこと、それは命のつながりを表す最高の証」であると。英文翻訳としてはどうかとは思いますが、敢えてこのように訳したいと思いました。
誰もが、与え、注ぐことのできる素晴らしい何かを与えられているはずです。その何かを発見できるのもまた、Communicationの中にあるのではないでしょうか。

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