トピックス(2017年10月掲載分)

ヒルダ祭で「東日本大震災ボランティア」の展示を行いました2017年10月18日掲載

10月7日・8日の第44回ヒルダ祭では2年ぶりに、キリスト教センター主催の東日本大震災被災地の方々へのボランティアの写真展示を、ビカステス記念館に於いて開催しました。
昨年3月20~23日と今年3月23~26日に宮城県名取市・石巻市(河北・北上地区)の仮設住宅やワカメ養殖・加工業のお宅などをお訪ねした第13・14回「東日本大震災ボランティア」、そして今年8月3~6日に福島県郡山市のセントポール幼稚園の皆様を香蘭女学校の北軽井沢山荘「清香寮」にお招きした第4回「山荘受入ボランティア」。今年もこれらのボランティア活動の様子を写真パネルで展示し、相互交流の現在をご来場くださった方々にご紹介しました。

第44回「ヒルダ祭」が盛大に開催されました2017年10月17日掲載

香蘭女学校生徒会の最大の行事である「ヒルダ祭」。今年で44回目を迎えるこの香蘭の文化祭が10月7日・8日の両日、一日目初めは雨模様ではありましたが次第に晴れ、二日目は晴天の中、たくさんのお客様をお迎えして盛大に開催されました。
「ヒルダ祭」は、部活動の特に文化部の発表の場であり、文化的な質の高さと深さを、じっくり準備を重ねてゆく中でとことん追求することに、その最大の特色があります。
今年の「ヒルダ祭」のテーマは「Update」。全校生徒一人一人がそれぞれ、昨年とは違うワンステップUpdateした、活気あふれる、質の高い、元気の良い、きらめく姿を披露すべく、何か月にもわたって準備を重ねて、ようやくこの日を迎えました。また、今年も例年通りマスコットキャラクターをヒルダ祭運営委員会が募集し、多数の応募作品に全校生徒が投票した結果、「ヒヨコトリオ!!」に決定し、ヒルダ祭のいろいろな場にこの「ヒヨコトリオ!!」が登場していました。
2日間とも、ご家族や卒業生、そして何より小学生の皆様など多数のお客様に支えられて、教室、ホール、タナーホール、オーキッドホール、アリーナ、校庭、アプローチなど、どの会場も地道な活動に支えられた力強い発表に満ち満ちていました。「Update」が溢れる2日間で、香蘭女学校の生徒たちも、十分に目的を達成し得た満足感で笑顔をふりまいていました。

香蘭生がボランティアでお邪魔している十三浜の本が受賞2017年10月16日掲載

香蘭女学校が2011年8月の第1回東日本大震災ボランティアからずっと継続して訪問している石巻市北上町十三浜。2014年3月の第7回ボランティアからは、十三浜にあるワカメ養殖加工を行っている数軒のお宅へ伺い、そのお仕事のお手伝いをさせていただいています。
東日本大震災後ちょうど6年目にあたる今年の3月11日に、この十三浜のワカメやコンブを使った料理レシピを紹介した本『三陸わかめと昆布 ―浜とまちのレシピ80―』が、婦人之友社から刊行されました。
この十三浜の本がこの9月、書店員有志が中心となった『料理レシピ本大賞 in Japan実行委員会』が運営する「第4回 料理レシピ本大賞 in Japan」で、料理部門DNP賞を受賞しました。
この本の中には、香蘭女学校の東日本大震災ボランティアで生徒たちが毎回お世話になっている十三浜大室の佐藤さんや十三浜大指の青山さんが写真入りで載せられています。また、2013年2月に同じくボランティアで生徒たちがお邪魔した十三浜相川の応急仮設住宅相川運動公園団地の遠藤さんもご夫妻で掲載されています。
ボランティアに訪れた時に、生徒たちが作業の合間などに調理法を教えていただいたり、ご馳走になったりしたワカメやコンブの料理がこの本には紹介されており、ボランティアに参加した香蘭生にとって懐かしくその味が思い起こされる本になっています。
今回の受賞を我が事のように喜んでおります。

(写真は左上から、『三陸わかめと昆布』表紙と或るページ、2016年3月に十三浜大室の佐藤さんのお手伝い、同月に十三浜大指の青山さん宅にて、2017年3月に十三浜大室の佐藤さん宅にて、同月に十三浜大指の青山さん宅にて、2013年2月に相川運動公園団地にて遠藤さんと)

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(11)2017年10月14日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第7回です。

《香蘭女学校の歴史 7 草創期の香蘭女学校は組織作りの日々》

1888年の創立時の香蘭女学校は、修業年限は4年、入学資格は「年齢13歳以上 小学校6年の課程を卒りたる者、又は之に相当する学力を有する者」とされました。最初の生徒数は7名。
その後1889年には、女子小学校設立願を提出し、受理されたため1890年に香蘭女子小学校が開校しました。小学生の募集広告には「英和漢数学作文裁縫簿記女礼等一切女学に必要なる科目を授く」とあります。小学校には高等小学校と尋常小学校とがあり、ひと月の授業料は中学科が1円、高等小学校が80銭、尋常小学校が60銭でした。香蘭女子小学校に通っていた子どもは良家のお嬢様が多く、通学は人力車で、中には2台の人力車を連ねて通う子どももあり、その2台は子どもの乗る人力車とお供の人が乗る人力車で、お供の人たちも含め皆、学校が終わるまで門外で待っていたそうです。登校すると挨拶は「Good morning. How are you?」。毎朝礼拝があり、校長先生は長橋政太郎先生。小学校はほぼすべて日本人教員によって授業があり、ただ週3回位は英国人の先生に英語を教わっていました。香蘭女子小学校の先生は皆、スーッ、スーッと歩かれて、頭をきちんと結い、その上に小さな帽子を載せていたそうです。上品で親切で優しく、丁寧に教えてくれたと、卒業生が後に振り返っています。上級生は「お姉様」と呼ばれていて下級生をとても可愛がり、昼食に美味しいサンドイッチを下級生のために作ってくれました。そのサンドイッチは紅茶付きでもありました。クリスマスの時は合唱をしたり、バザーもありいろいろな製作品を作ったりもしたそうです。香蘭女子小学校は1900年まで続きます。
小学校開校の1890年の香蘭女学校の生徒数は37名でした。また同じ年、2年間の予科を設置しました。そのため、それまでの修業年限4年の方は本科と呼ぶことになりました。なお、予科は1910年まで続けられます。
1891年には、同年起こった濃尾地震による孤児たちを収容するために、地震発生後間もなく現地へ向かったミス エリザベス・ソントンが中心となって清蕙幼女学校を設立し、そこに入った子どもたちは香蘭女子小学校で初等教育を受けました。この清蕙幼女学校には、先述した世界的に著名な英国人旅行家イザベラ・バード女史(1831~1904)が、後に深い関わりを持ちました。イザベラ・バードはジョン・ビショップと結婚しますが、何年もしないうちに夫は逝去、日清戦争中に朝鮮や滿州を旅行し、さらにその後、日本へ旅してその山川に心を慰められました。そして、亡き夫の記念を自分が愛する日本に遺そうと思い、清蕙幼女学校のために一棟の寄宿舎を建設してほしいと、1895年6月に芝区栄町11番地にあった主教館(エドワード・ビカステス主教の住まい)に宿泊していた時、香蘭女学校校長に寄付金を渡しました。その寄宿舎が1895年に落成したため、ジョン・ビショップ館と命名し、長くイザベラ・バードのご主人の記念とすることとした、という記録が残っています。落成した寄宿舎ジョン・ビショップ館では、1895年9月28日にエドワード・ビカステス主教の司式によって開院式が挙行されました。ちなみに、9月29日の「聖ミカエルおよび諸天使の日」に合わせて式を行うこととしていたが、この年はこの日が主日(日曜日)だったため、前日に挙行されたということです。なお、香蘭女子小学校は貧しい家庭の子どもたちのために、無償で教育の機会を与えており、そのため孤児のための清蕙幼女学校には小さな男の子も寄宿していました。
翌1892年に、香蘭女学校は創立後初めての卒業式を挙行しました。この時のただ1人の第1回卒業生が三吉ともです。幕末、土佐の坂本龍馬が襲われ瀕死の重傷を負い薩摩藩邸に担ぎ込まれ九死に一生を得た寺田屋事件の折、寺田屋に龍馬と同宿して一緒に襲われ、重症の龍馬を救った槍遣いの名人が長州藩士・三吉慎蔵。この慎蔵の次女が三吉ともです。三吉ともは1865年生まれ。1886年に京橋英語学校、1888年に明治女学校、翌年1月31日香蘭女学校に入学。1891年、ともは一度故郷に帰り翌年結婚。すぐに上京し1894年3月香蘭女学校卒業。その後は来日する外交官夫人と皇后との通訳に従事し、1899年逝去。一人娘の梅子は慎蔵と古くから親交のあった乃木希典の養女となり、そのご子孫が現在兵庫県宝塚市におられます。
なお、創立当時の卒業式は、内外の賓客や生徒の父母を招き茶菓で饗応し、式典ではビカステス主教や今井壽道校長の式辞、慶應義塾塾長等からの祝辞、卒業生代表の答辞、さらには教員や生徒による祝辞、生徒によるピアノの演奏、英語暗唱やジュリアス・シーザーの劇、唱歌、手芸や墨画の展示、などが続きました。1893年の第2回卒業式では、卒業生代表として末川たき(後の田中滝子)が英語の答辞を読んだとの記録が残っています。なお、茶菓の饗応にはアイスクリームが出されたこともありました。
1897年、女子手芸部が付設されました。修業年限は、裁縫科が3年、刺繍科が4年でした。手芸部は1912年まで続けられます。そして、1899年には学則変更をし、刺繍専修科が設置されました。
麻布永坂時代(1888~1912年)の香蘭女学校は、学校としての組織作りが試行錯誤しながら次々と行われた日々であったと言えましょう。

(写真は順に、清蕙幼女学校、清蕙幼女学校での子どもたち、三吉とも、三吉ともの学籍簿、末川たき、末川たきの卒業証書)【清蕙幼女学校関連の写真は、金坂清則氏から許可を得て『イザベラ・バード 極東の旅』から転載しました】

ハンセン病施設「多磨全生園」を訪問しました2017年10月10日掲載

今年で115年目を迎える11月23日開催の香蘭女学校のバザーは、毎年その収益金を多くの福祉施設や福祉事業に寄付しています。その中の一つに、ハンセン病の療養所である「多磨全生園」(たま・ぜんしょうえん)があります。毎年秋、高等科2年生のバザー委員が中心となってこの多磨全生園を訪問していますが、今年も10月1日に高等科2年の生徒が訪ねました。
多磨全生園は1907年制定の「癩予防ニ関スル件」に基づき、北は新潟県、西は愛知県に至る1府11県が連合して設置する公立療養所第一区府県立全生病院として発足したものです。1941年に厚生省に移管され現在の名称となりました。その後、病気の解明が進み治るものとなっても、「らい予防法廃止に関する法律」施行は1996年まで待たねばならず、ハンセン病患者は大変な迫害・差別に遭ってきました。多磨全生園は、隣接して1993年に開館した高松宮ハンセン病資料館(現在はリニューアルして国立ハンセン病資料館と改称)を拠点として、ハンセン病に対する知識の普及と差別・偏見の解消等の活動を担ってもいます。現在、入所されている方は180名(2017年1月現在)平均年齢は84.9歳ということです。
バザー委員の生徒たちはまず、園内の宗教地区にある日本聖公会聖フランシス聖エリザベツ礼拝堂を訪ね礼拝を捧げました。そのあと入所されている方々とお茶やお菓子を共にして語り合うひとときを持ちました。入所されている方々と触れあう経験の中で、ハンセン病患者として隔離されてきた方々の厳しい現実を生徒たちは思い知りました。是非にとの要望に応えて、香蘭女学校の校歌を歌う一幕もありました。そして引き続き、多磨全生園の広々とした園内の諸施設を見学し、悲しみの場所である「望郷の丘」や納骨堂を訪ねました。 その中でもとりわけ国立ハンセン病資料館の展示は、参加した生徒たち全員にとって衝撃が大きかったようでした。
香蘭女学校の生徒たちがこの多磨全生園を訪問した最初は、まだ差別偏見の嵐が吹き荒れていた戦後間もない1950年頃のことでした。当時の香蘭の先生方の見識の高さをうかがわせるこの訪問以来、香蘭女学校の生徒たちと多磨全生園との関わりは続けられてきました。普段の家や学校の生活の中ではなかなか知ることのできないハンセン病。長く日本で行われてきたハンセン病差別の歴史を、この訪問によって生徒一人一人が心の奥深くで受け止めてきました。

中等科3年生が東北修学旅行へ出かけて来ました2017年10月09日掲載

9月28日~30日の二泊三日、今年も中等科3年生は修学旅行へ出かけてきました。
中等科3年生の修学旅行の行き先はずっと以前から東北ですが、新たに2ヶ所の見学地が加わりました。今年の行き先は、三内丸山遺跡~奥入瀬渓流~休屋・乙女の像~大湯~康楽館・小坂鉱山事務所~盛岡先人記念館・原敬記念館~厳美渓~毛越寺~中尊寺~えさし藤原の郷です。
初日最初の見学地は三内丸山遺跡。案内・説明を受けながら見学しましたが、日本最大の縄文遺跡に圧倒されるひとときでした。奥入瀬渓流は予定していた散策を雨で諦めざるを得ずバスからの見学でしたが、その代わり急遽予定を変更して十和田湖遊覧船に乗ることになり、大自然の美しい造形である二重カルデラ湖の十和田湖を存分に楽しみました。
翌日最初の訪問先は康楽館と小坂鉱山事務所。1905年に建設され、鉱産額で全国一位となった小坂鉱山の文化遺産である小坂鉱山事務所で、かつての鉱山の様子を見学するとともに、その小坂鉱山の福利厚生施設として1910年に建設され現在は国の重要文化財に指定されている芝居小屋「康楽館」を訪れました。この芝居小屋の中に入った生徒たちは、昔ながらの桟敷席や回り舞台などに興奮気味で見入っていました。そのあと訪れた盛岡先人記念館と原敬記念館は、今年度からコースに入った新たな見学地でした。
最終日は厳美渓から出発。世界遺産に登録されている毛越寺と中尊寺を訪れました。ここは生徒たちが最も楽しみにしていた見学地の一つです。とりわけ、中尊寺では金色堂に入って、生徒たちはその絢爛豪華な姿にしばし心を奪われていました。そして最後の見学地、えさし藤原の郷。20haにも及ぶ広大な敷地に平安時代の寝殿造の建物が見事に再現され、実際にその中に入って見学できる場所。生徒たちは伽羅御所を中心に楽しんでいました。
天気には恵まれませんでしたが、中等科3年の生徒たちは終始元気に、楽しく好奇心旺盛に見学をし、充実した修学旅行となりました。

第2回学校説明会にご参加いただき有難うございました2017年10月08日掲載

9月22日、香蘭女学校の第2回学校説明会を開催しました。多数の方々にご参加いただきまして、感謝申し上げます。
今回の学校説明会は、開会のお祈りに続いてまず鈴木校長から香蘭女学校の教育方針について、そして高橋チャプレンから香蘭女学校のキリスト教教育について、また井上中等科教頭から香蘭女学校の女子教育についてお話をしました。その後、教科教育について、生徒が作成した学校生活紹介のビデオ映像、続いて4教科の中学入試問題についてお話しした後、今度は授業紹介のビデオ映像をご覧に入れました。
閉会のお祈りのあとは、希望者が授業見学、校内見学へと出発して行きました。教室の中に入って中等科1年と2年の授業をご覧いただく授業見学のプログラムは初めての試みで50組限定としましたが、早くに予約が埋まり、小学生の父母の皆様は興味津々の表情で、授業の様子に見入っておられました。
オーキッド・ホールでは、国際交流・理科教育・平和学習の展示も行われ、また個別相談にも多くの方がいらしてくださいました。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(10)2017年10月07日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第6回です。

《香蘭女学校の歴史 6 創立当初の教育を担った日本人女性教師たち》

創立当初、東京でも遠方の生徒や、北海道・九州、あるいは小笠原出身の生徒など、自宅から通学できない生徒たちがいたため、寄宿舎を設置しました。麻布永坂校舎の2階が寄宿舎となっていました。当時の寄宿舎規則によると、起床は午前6時、朝食は午前7時、昼食は正午12時、夕食は午後6時、就寝は午後9時、そして9時30分には灯火を消すことと定められ、また午後3時30分から5時までが運動時間と決められていました。寄宿舎はとても家族的で、ミス エリザベス・ベシー・ソントン以下歴代の館長は生徒にとってはまさに慈母の如くであったといいます。また、初代寄宿舎舎監としては生地新子先生を招聘しました。生地先生は英語に堪能で、熱心な聖公会の信徒でした。このほか舎監には山口直子先生などがいました。また、第2回卒業生(1893年卒業)の丹下得喜先生も寄宿舎の舎監でしたが、お作法の授業(科目名は諸礼)も受け持っていました。
英語や聖書を受け持っていた岡本房先生は、元々は漁師の娘だったようですが、孤児となり8歳の時に聖アンデレ教会で受洗。S・P・Gからの最初の女性宣教師ミス アリス・エレノア・ホアに保護され長年同居していました。1900年頃に香蘭の教師となり英語・音楽・聖書を教え、一方キリスト教の伝道師としての働きも熱心にしていました。1924年に、既に白金三光町に移転していた香蘭女学校の敷地内にあった三光教会で女性伝道師として働いていたという記事が残されており、また同じ1924年には三光教会婦人会の会長に推薦されて選ばれています。香蘭女学校での岡本先生の様子について、21回生の豊間喜恵子さんは「よく岡本先生に導かれて校外へ参りました。ある時は上野の博覧会へ、ある時は蒲田の菖蒲園へ……」と語っており、少人数のクラスを引き連れて校外見学をしばしば行っていたようです。後に慶應義塾塾長小泉信三夫人となった小泉とみ(旧姓阿部)さん(19回生)は「聖書は岡本先生で、モーセの時にお泣きになるの。」と、また34回生の秦ユリさんは「三光教会があり、日曜日になると、寮生は皆出席することになっておりました。オーガニストは岡本房子先生という修女志願の黒い服を召したお方で、先生のオルガンは本当にすばらしいと思いました。この先生は永坂時代からあった旧聖ヒルダ女子神学校の先生でもあられた方です。」と語っています。岡本房先生の人となりがうかがえます。香蘭女学校では、寄宿舎が中心となって時折「夜会」が催されていました。慶應義塾大学創立者福澤諭吉のお孫さんである福澤宏(八重)さん(19回生)は、「夜会がありました。此れが誠に楽しく、皆々おしゃれをしてよそ行きの袴にゆうぜんの袖の長いきものに胸高に袴の紐を結び、黒いピカピカみがいた靴をはき、髪にはリボンをかざって、夜七時頃出かけます。広々と片付けた室でミス ニューマン、ミス ネビル、岡本先生方と先ず色々のゲームをいたしましたが、ミュージクルチエアー等おもしろく笑いました、数々のゲーム後、最後にダンスをいたしました。品のよい美しいダンスで皆々其の場でおぼえます。」
と語っており、このような楽しい場にも岡本房先生が積極的に参加されていたことがうかがえます。岡本先生は、強い近眼だったそうですが、英語はペラペラ、1903年に始まったバザーの前には、英語の本を見ながら編み物を生徒に教えていたそうです。1928年香蘭女学校退職、同敷地内のエピファニー修道院に入り病人や孤独な方々を慰問する生活に入られました。1931年3月14日、逝去。当時の校長(第3代)の富田俊先生は、「十四日岡本房子先生の御訃音に接しました。岡本先生は、がっしりとした、健康な御方で、伝道に精進し、奉仕の御生涯をつくされ、その御隙には、エピフアニー・ホーム、の御庭の御花を持つては、病人や、孤独な者を、慰問して居られました。亡き母に、よく花を下さいましたのに、今は凡べて、帰らぬ夢となりました。」日本に初めて女性伝道師としてはるばる英国からやってきたミス ホア。ちょうどその頃、親を亡くして天涯孤独の孤児だった一人の少女が、このミス ホアと一緒に生活をしながらその教えを全身で受けとめて、決して目立つようなことはせずに常に周囲に優しい心遣いをしながら、キリスト教の伝道と教育に、奉仕ひとすじの生涯を捧げました。岡本房。私たちが覚えておきたい香蘭女学校の功労者の一人です。
さて、英語を教えた先生には、ミス オザキと生徒たちから呼ばれていた先生もいました。この先生は、英子セオドラ尾崎。後の、「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂)夫人です。セオドラ尾崎先生の父親は、男爵の尾崎三良で、ロンドン留学中に結婚した教師ウイリアム・モリソンの娘バサイアとの間に生まれた娘のうちの一人です。1887年に16歳で来日。アレクサンダー・クロフト・ショー夫妻に引き取られ、香蘭女学校の教員になりました。その後、駐日英国公使夫人の個人秘書、1895年に渡欧しイタリア・ロンドンに滞在、1899年に再来日し慶應義塾幼稚舎の英語教師、その後物語などを執筆、社交界でも人気を集め、そして同姓ゆえの郵便配達の誤配がきっかけで尾崎行雄と親しくなり、1905年に結婚、1932年に滞在中のロンドンで逝去。
このほか、堀貞子先生や、後の第3代校長である富田俊先生も、創立後割合早い時期から白金三光町時代に至るまで、長い間香蘭女学校で和文学(今の国語)を教えていました。

(写真は左上より、生地新子先生、山口直子先生、丹下得喜先生、岡本房先生、英子セオドラ尾崎先生、堀貞子先生)

全校礼拝でこの夏の広島平和学習に参加した生徒が報告2017年10月06日掲載

8月1~3日に今年も実施された広島平和学習。参加した生徒のうち高等科1年の2名の生徒が9月15日朝の全校礼拝の中で、その報告をしました。
原爆ドームが元々はどのような場所であったのかということを説明した上で、実際にそこを今回訪れて感じた思い、被爆地の碑巡りを案内してくれてそのあと一緒に話す機会を持ってくれた広島女学院の生徒たちの意識の高さ、特に被害者としての被爆だけでなく加害者としての日本人として原爆について考えていることなどを一つ一つ具体的に話してくれました。現地を訪れなければ実感できない思いを抱く中で、実際に見ることの必要性、いつも考え、思い続けることの大切さ、そして被害者意識ではなく加害者としての歴史観をも併せ持つことの重要性を、丁寧に語ってくれました。
しんと静まりかえった礼拝堂には、2名の生徒の話に聴き入る緊張感があり、大切なことを全校生徒が共有できた時間となりました。

ヒルダ祭で東日本大震災ボランティアの展示をします2017年10月05日掲載

10月7日(土)・8日(日)に開催するヒルダ祭では、今年も香蘭女学校の東日本大震災被災者の方々に対するボランティアの様子を写真展示で紹介します。
会場はビカステス記念館。
2016年と2017年に宮城県名取市と石巻市で行った「東日本大震災ボランティア」と、2017年に北軽井沢にある香蘭女学校山荘「清香寮」で行った福島県郡山市セントポール幼稚園の皆様をお招きした「山荘受入ボランティア」の写真展示です。
出会いと交流の様子を、写真展示で是非ご覧ください。

二学期の防災訓練が全校生徒・教職員によって行われました2017年10月04日掲載

今年も二学期初めの防災訓練が、9月15日に全校で実施されました。
今回の防災訓練の目的は「大地震発生時の対応の訓練」と「起震車体験」でした。
初めに緊急地震速報が流れた旨の全校放送が流れ、全員すぐに防災頭巾をかぶり自分の机の下に潜りました。続いて、クラスごとに整列して校庭へ静かに移動。校庭到着後はすぐに人員点呼をして、学校の防犯防災対策委員会の先生で構成される防災訓練本部に報告。他の教職員が校内各所に分かれ、残っている生徒はいないかを全て点検しました。
次に、各クラスから1名ずつが前に出て、全校生徒の前で学年ごとに起震車に乗り、震度7の巨大地震を体感しました。同時に品川区防災課の職員の方から、具体的な説明がいろいろと行われました。最後には各学年の学年担当の先生が6人で起震車に乗り、東日本大震災に近いレベルの地震を体験しました。
防災課の職員の方から、机などのない場所で地震に備える姿勢など、どのようなことに気をつけたらよいか、どのような準備をしたらよいかを、わかりやすくお話しいただきました。
最後に、鈴木校長からのメッセージが伝えられて、二学期の防災訓練は修了しました。
6年半前の2011年に東日本大震災を経験してから、大地震への対策の必要性が私たちに強く実感されてきています。また、台風などによる災害も毎年増えているのが現実です。そして火災は常に起こり得る身近な災害です。香蘭女学校でも、「そなえよ つねに」の精神で必要な対策をとり得る限り講じて、いざという時に備えています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(9)2017年10月03日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第5回です。

《香蘭女学校の歴史 5 創立当初の教育を担った女性宣教師たち》

この歴史シリーズの第3回でご紹介したように、初代の校長は今井壽道先生です。1863年10月2日、東京芝葺手町の沼田藩邸で、医師の今井玄斎の次男として生まれた今井壽道は、父が逝去した4歳のころには既に論語を読み、十八史略を暗唱、百人一首を暗記し、神童の呼び声が高い子供だったといいます。10歳の頃には神谷町の岸本小学校の助教をし、その頃芝栄町で伝道を始めたアレクサンダー・クロフト・ショー宣教師(前出)に出会いました。そして1875年から慶應義塾の福澤諭吉邸に仮寓していたショー宣教師のもとに出入りし、ショー宣教師が福澤邸から栄町に転居した時には、今井壽道もショー宅に寄寓しました。1888年香蘭女学校創立の際、今井壽道が通訳を担当していたビカステス主教から校長を命ぜられました。弱冠25歳の時です。1889年聖安得烈学院教授兼務、司祭按手、そして1902年聖教社神学部校長就任を機に香蘭の校長を辞任しました。1919年9月3日永眠。享年55歳。
また、創立当初の香蘭を支えた女性宣教師の代表は、先述の通りミス エリザベス ソントンでした。ただ、その他にも多くの女性宣教師たちが香蘭女学校で教鞭を執りました。今井壽道初代校長は聖公会で重要な役割を担っていたため、香蘭女学校では新約聖書の講義をする時間をとる位が精一杯でした。その今井校長に代わって、香蘭女学校の創立当初の時期、実質的な校長の職務を行っていたのはミス E・ブルックでした。朝のお祈りを捧げる担当も、生徒の出席をとるのも、ミス ブルックが行っていました。
1894年にミス メイプル・リカーズが来日してからは教室が増築され、校舎の2階に広い畳敷きの床の間付きの日本間、この部屋は作法室兼お花や絵の教室として使われることになりましたが、それまでの1階の教室に代わってこの2階の日本間で、ミス リカーズによって毎朝の礼拝が守られ、また「おとめさん」「おとくさん」……とミス リカーズによって出席がとられるようになりました。ミス ブルックに続く実質的校長がこのミス リカーズでした。体が大きく、またとても威厳に満ち、高い見識と風格を示した先生で「ミス リカーズは近づき難いまでの格調を持った女丈夫ともいうべき方」だったと伝えられています。ミス リカーズの英語の授業は大変厳しいものだったようで、当時の生徒たちは後に「一同が泣きの涙で勉学いたしました」と振り返っています。怒ると足をガタガタさせて大きい声を出すので、怖がっている生徒が多かったと。しかし、生徒のうちの一人が持っていた薔薇を見つけたミス リカーズがニコニコして、上手な日本語で「まあ、きれいな薔薇の花ですね。私の国を思い出します。」とおっしゃり、生徒が「ミス リカーズ、これ、差し上げましょう。」と渡したら大変喜ばれたという逸話も残っています。午後にはしばしば編み物のお稽古をしてくれたのもミス リカーズで、花の透いたような細かい模様の編み物を生徒たちは教わったりしていました。このミス リカーズは、ミス ソントンの後継者と言ってよく、香蘭女学校だけでなく、ミス ソントンが始めた聖ヒルダ養老院や聖ヒルダ女子神学部の責任者などもつとめ、1913年に離日しました。
このミス リカーズとほぼ同時期に香蘭女学校で教育に携わった宣教師に、ミス フローラ ホーガンがいます。1892年に来日し、香蘭女学校の実質的な校長や聖ヒルダ養老院の責任者、また聖ヒルダ神学部・手芸部の責任者などをつとめました。太いジェーペンでA、B、C、……と、小がらな体をいっぱいに使ってペンの使い方から教えてくれた、看護法も教わったと、ミス ホーガンについての思い出が伝わっています。1922年離日。
当時の女性宣教師の先生の中でも若く人気があったと伝えられるのが、ミス エディス ハミルトン、後のシスター スペリアです。1908年に来日し、若くキビキビしていて、ピンクや白、ブルーの洋服が生徒の目を引いた先生で、ある卒業生は生徒時代、ミス ハミルトンにとても熱を上げて、先生の教室からの帰り道を待ち伏せしてご挨拶をしたと当時を振り返っています。1913年に離日。
教頭をつとめていたミス ヘレン ニューマンは、1905年に32歳で来日し、香蘭女学校に奉職しました。朝、出席をとるのは教頭であるミス ニューマンのつとめでしたが、生徒たちは一人ひとり呼ばれると「present」か「here」と返事をし、欠席の人の分は級長が「absent」と返事をしていたそうです。当時は寄宿舎で夜会が時々行われましたが、生徒とともにミス ニューマンもゲームなどを楽しみ、夜会最後のプログラムであるダンスの時は、ミス ニューマンが一人でピアノをずっと弾き続けていた。良家の生まれで、発音のきれいな英語を話し、また優しい先生で或る生徒が中耳炎になった時は家まで訪ねてきてくれた。生徒の親はとても驚いたけれど、畳に座ることができないからと踏み台を出してきて腰掛けていただいたというような逸話が残っています。

(写真は左上より、今井壽道初代校長、ミス ブルック、ミス リカーズ、ミス ホーガン、ミス ハミルトン、ミス ニューマン)

7・8日のヒルダ祭では生徒の活動や様子をご覧いただけます2017年10月02日掲載

来る10月7日(土)・8日(日)に開催されます香蘭女学校の文化祭「ヒルダ祭」には、香蘭女学校の受験を希望されている小学生の皆様は、学年を問わずご入場いただけます。
この「ヒルダ祭」は、香蘭女学校の部活動の日頃の成果の発表を中心に、その他クラス参加・有志参加なども含め、香蘭女学校の生徒の学校での活動や様子を直接ご覧いただける貴重な機会となっております。
また、ご来場いただいた小学生の皆様と香蘭生が触れ合う場もたくさん用意されておりますので、是非この2日間は学校の下見を兼ねて香蘭女学校にいらっしゃって、展示や発表を楽しんでいただければと思います。
香蘭生一同、心からお待ちしています。

(写真は昨年のヒルダ祭の様子)

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