トピックス(2018年2月掲載分)

クワイヤー恒例のファミリーコンサートが行われました2018年02月26日掲載

香蘭女学校の礼拝奉仕団体であるクワイヤー。生徒会に所属する他の部活動とは異なり、学校直属で礼拝やさまざまな行事で奉唱しています。4月の入学感謝礼拝や3月の卒業感謝礼拝は勿論のこと、4月の新入生歓迎コンサートや10月のヒルダ祭でのコンサート、6月に毎年関東地区のキリスト教学校が集まって開催する聖歌合唱交歓会、7月には銀座教会で開催されるキリスト教学校フェア、11月には三光教会創立記念日礼拝、そのあとには香蘭のクリスマスイルミネーション点灯式と12月のクリスマス礼拝、12月24日には三光教会のクリスマスイブ礼拝など、あちらこちらで引っ張りだこの忙しさです。今年は香蘭女学校130周年企画展示に付随する企画でも奉唱する予定になっています。
その多忙な年間スケジュールの最後の場とも言える、毎年2月恒例のファミリーコンサート。部員全員での歌の披露だけでなく、学年ごとの歌、さらに最上級生である幹部の交代式も兼ねるクワイヤーにとっては大切なコンサートです。
今年のプログラムは、「ドレミの歌」「愛の芽生え」「How Far I’ll Go」「Sussex Carol」「What time is it」と続いたあと、各学年の曲になりました。中等科1年は「輝く未来」、中等科2年は「カントリーロード」、中等科3年は「ヒカリノアトリエ」、高等科1年は「あなた」、高等科2年は「ノンフィクション」をそれぞれ披露しました。
そして、高等科2年の部長から幹部の交代が告げられ、新幹部が披露されました。最後に結びの歌を全員で歌ってファミリーコンサートは無事終了しました。最後には涙涙の場面となりました。

三学期は今年も防犯訓練 ~ 不審者侵入への対応2018年02月25日掲載

年に3回実施される防犯・防災訓練のうち、三学期は例年通り防犯訓練が実施されました。2月9日に行われた今年度の防犯訓練は、不審者が侵入した場合の対応と、対応の仕方の確認徹底の二つを目的として行われました。
初めに不審者侵入の放送とともに、各クラスで机と椅子を使ったバリケード作りを素早く行いました。不審者に扮した警察官に教職員が立ち向かう場面もあり、そこに警備会社の方も駆けつけました。
引き続き、全校生徒は礼拝堂に移動し、荏原警察署署員の方によるお話がありました。まず防犯標語の「いかのお寿司」の紹介がありました。「いかのお寿司」とは、【「いか」…知らない人について「いか」ない、「の」…知らない人の車には「の」らない、「お」…連れていかれそうなときは、「お」おきな声を出す、「す」…危ないときには、「す」ぐ逃げる、「し」…何かあったら、すぐ「し」らせる】、という意味の防犯スローガンです。そして、最近の不審者の傾向の紹介と不審者への対応のしかたの説明を受けました。具体的に通学経路、例えば電車の車内の痴漢などの例を挙げて、わかりやすく説明してくださいました。最後に校長先生からの講評があり、普段からの心がけを改めて喚起されました。
香蘭女学校は女子校であるが故に、女子校が備えなければならない様々な危険に対し、常日頃からその対策を考え、訓練も行って、生徒の安全を守りたいと考えていますし、そのための訓練をしています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(22)2018年02月24日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第18回です。

《香蘭女学校の歴史 18 泊りがけの修学旅行(日光)が初めて行われる》

1922 年 10 月、念願の泊りがけ修学旅行が創立以来初めて実施されました。その記録が残っています。
この初めての泊りがけ修学旅行には 5 年生 22 名が参加し、ミス ウィリアムズ、体育担当の本多仲子先生、 そして国漢担当の富田俊先生が引率について、日光へ一泊二日の旅に出かけました。「修学旅行が日光行きと 決定された時の嬉しさ、実にいまだかつて得たことのない喜びであった」と、その時出かけた生徒の一人・守 田順子さん(後の加藤順子さん、30 回生)は帰京して書いた作文に記しています。
集合場所の上野駅には、他の学校の生徒もたくさんいました。その混雑の中、香蘭女学校の生徒たちは宇都宮 行きの列車に乗り込み、午前 7 時ちょうどに出発しました。そして秋日和の日光駅に到着しました。
引き続き、神橋行きの単線軌道の特別臨時列車を仕立てて、東照宮前(神橋)で下車し、学生拝観の手続きの 後、案内者の指示に従って東照宮境内に入りました。そしてまずは、境内休憩所で各自持参の昼食弁当を、清 冽な大谷川のせせらぎの音を耳にしながら、また空に聳える高い杉の樹の間を飛び回る小鳥の楽しげな様子を 眺めながら、いただきました。
12 時過ぎに手持ち荷物をこの休憩所に置いて、身軽になって案内者に導かれて境内を進みました。案内者は 一つ一つ説明をしてくれました。老杉、朱塗り金具打ちの校倉造りの鐘楼や鼓楼、黒田筑前守長政侯の領地内 から運上されたという高さ三丈の石の鳥居、全部で百余基ある奉納灯篭、その灯篭の中でも仙台侯献上の南蛮 鉄の一対、オランダより寄進の回転灯篭、琉球よりの蓮灯篭、石造り水盤の創始と言われている肥前鍋島勝茂 侯の寄進の御手洗場、三代将軍恭悦の獅子……など、次々と眼前に現れるものの見事さに、生徒たちは圧倒さ れました。さらに、陽明門、唐門を通り、拝殿、奥宮拝殿、ぬき門、神輿舎と、その細工に圧倒されながら見 学をしました。
この後、二荒山神社に参拝してから、午後 3 時 30 分東照宮前発の電車に乗って移動し、馬返の茶店までこの 日の宿舎であるレークサイドホテルの番頭さんが迎えに来てくれました。中禅寺湖が間近に見えて、汀を打つ 静かな水音が聞こえるほどの、まさしくレークサイドの名にふさわしい宿でした。
レークサイドホテルの別館全部が、香蘭女学校一行のために貸し切りとなりました。食事は、本館の食堂の静 粛な食卓についていただきました。
宿舎の窓辺からは、日光富士の名に背かない見事な姿を見せる男体山が、手に取るように見えました。また、 入浴のあとは部屋に蝋燭を一本立てて、夕の祈りを捧げました。
真綿を着てコートまで重ねても寒さがみなぎり、夜 10 時に床についてもなかなか寝付けなかったようです。 蝋燭の灯を頼りにして友達への手紙を書き始める者もありましたが、ミス ウィリアムズが部屋の入口に来て 「早くおやすみなさい」と言われたので、まだ休むのは惜しい気持ちがありながら、旅の夜は更けて行きまし た。
翌朝は、中禅寺湖の湖畔に沿って五丁余り奥に入り、中禅寺の門前で記念の集合写真を撮影しました。そして また宿舎に戻り、支度を整えて、ミス ウィリアムズが先発して宿を出ました。この日一日、華厳の滝など、心行くまで秋山の気に触れ、色に染みつつ、最後は小一時間お土産を求めた後、予定していた午後 5 時 15 分 に日光をあとにしました。
夜 9 時 30 分、汽車は上野駅に到着し、生徒それぞれの家からの出迎えの人々に再会しました。特に到着時間が 遅かったため、お父様の出迎えが多かったようです。
この 2 年後の修学旅行についても、記録が残っています。引率はミス ウーレー、英語の荒畑元子先生、家庭 科の川島芳子先生でした。また、この時の生徒であった堀江静子さん(後の入江静子さん、32 回生)は後に、 この修学旅行が実現したことについて「初めて修学旅行が許されましたのも進歩的な教頭長谷川先生の御力に よるものと伺いました。当時としては一泊でも大したもので、長橋校長初め堀先生、牧野先生、荒木先生等割 に御年寄の多かった故か大抵熱海、箱根と相場がきまった遠足からこの一泊の修学旅行にまで及んだ事は香蘭 としては大進歩であり……」と回想しています。このことについては、第 1 回修学旅行の引率教員であった富 田俊先生も「年と共に輪郭が大きくなって行く今の時代に、一晩泊の日光は、至って手軽な修学旅行と云わねばならぬ。」と書いており、香蘭女学校初の泊りがけ修学旅行の実現は、変わりゆく時代の要請と、日本の女 子教育の最先端を行く教頭の長谷川喜多子先生の力とが、ちょうど重なり合ったことによるものだったと言え ましょう。

(写真は左より、1926 年の日光修学旅行、本多仲子先生、川島芳子先生)

今年度も中等科生徒会恒例の学年交流企画実施2018年02月23日掲載

行事の少ない三学期に、何とか学年を超えた交流の機会が持てないかと、毎年中等科生徒会が知恵を絞って企画するプログラムが、学年交流企画。この学年交流企画が今年も、2月8日の昼休み、校庭で実施されました。
相変わらず寒い日でしたが快晴の好天に恵まれたこの日、中等科1~3年生の参加で始められた今回の企画は、ドッジボール。まず中等科生徒会会長からルール等の説明がありました。そしていよいよ試合開始。学年対抗の試合が行われ、校庭のあちらこちらで叫び声が飛び交って、激しくも楽しいひとときとなりました。
学年交流企画のドッジボール、普段交流のない他学年の生徒とも一緒に楽しむ良い機会となりました。

高等科1年生のホームルームで卒業生がアドバイス2018年02月22日掲載

香蘭女学校ではキャリア・ガイダンスのプログラムの一環として、生徒たちが一番実感を共有しやすい卒業生にお話をうかがう機会を、たびたび持っています。この2月7日の高等科1年生のホームルームには、4人の卒業生がアドバイスに来てくれました。
学年全員が集まったタナー・ホールで紹介された4人の卒業生は、大学も、また文系・理系、学部も異なり、さらに学年も別、香蘭女学校の高等科に在籍していた当時の部活も違い、性格も異なる、といったタイプの違う4人だったので、高等科1年生にとっては自分に近いタイプを探しやすかったかもしれません。
4人ともに素敵な人柄を感じさせる話しぶりで具体的なわかりやすい話をしてくれて、そのあと高等科1年生の質問にも丁寧に答えてくれました。
香蘭女学校では、進学指導ではなく進路指導と考えて、それぞれの生徒の将来を見据えての人生設計をしっかりと考えられるように、さまざまな形でのプログラムを設定しています。

中等科でGTEC for STUDENTS、高等科で学力テストを実施2018年02月21日掲載

三学期に入り、現在の学年の総まとめの時期に入ってきました。2月上旬には、中等科と高等科で別々にそれぞれの実力を測るテストが実施されました。
香蘭女学校では長年、学力の客観的な指標を得るために各学年で毎年学力テストを複数回実施しています。そしてこれからは2020年度の大学入試変更も含め、より一層主体的で総合的な学力が求められます。そのため学力テストのあり方も見直し、今年度から中等科の学力テストは、より広範な力が求められるものに変わりました。
2月3日には、一学期の6月に引き続きGTEC for STUDENTSのテストが中等科で実施されました。近年、英語の「聞く」「話す」「読む」「書く」の四技能を総合的に育成することが求められています。また、2020年から施行される大学入学希望者学力評価テストでも、英語では四技能を重視する出題が検討されています。さらに香蘭女学校に関しては、立教大学関係校推薦において、CEFR B1レベル以上の英語に関する能力を有することがその推薦条件に含まれており、これはGTEC for STUDENTS(Advanced)+GTEC for STUDENTS Speaking Testの合計スコアが815点以上に相当し、この点数があってはじめて推薦基準の1つをクリアすることになります。今後の大学入試制度改革の動向、英語を使ってさまざまなことを学ぶ力が求められる中で、香蘭女学校の英語教育の中で培った技能が測定できるテストを、中等科1年生の2月から始めて、高等科2年まで各学年で実施しています。今回実施した中等科では、その英語レベルに合わせて1・2年ではGTEC for STUDENTS(Core)、3年ではGTEC for STUDENTS(Basic)を実施しています。特に中等科1年生は入学後初めてのGTEC受検でした。なお、四技能の残りの一つのテストであるGTEC for STUDENTS Speaking Testは、また日を改めて実施します。
一方、高等科では2月6日に学力テストが実施されました。このテストによって、大学入試を視野に入れて現在のそれぞれの実力を測り、自身の進路へ向けての学習の見直しを図ることになります。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(21)2018年02月20日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第17回です。

《香蘭女学校の歴史 17 新しい時代の期待を一身に背負った長谷川喜多子教頭》

白金三光町の校舎に移って、大正という新しい時代の香蘭女学校の期待を一身に背負った先生に、長谷川喜多子先生がいます。
長谷川喜多子先生は1872年生まれ。現在の女子学院の前身である桜井女学校に入学しました。後に女子学院の院長となる三谷民子がこの桜井女学校に入学した際に髪に緋鹿の子の手柄をかけ簪をさし帯に赤いしごきをしてポックリを履いて現れた姿を見て、上級生のガントレット恒子(作曲家山田耕筰の姉。後に婦人矯風会会頭)と長谷川先生は校舎の2階から「一寸、今度のあがりっこ踊つ子みたいだね。」と話したという在学中の逸話が残っています。長谷川先生は桜井女学校を1887年に卒業しています。当時の卒業式次第には「明治二十年卒業證授與スベキ者」として「日本学科四名 提箸金子 長谷川北子(後略)」と記されています。
桜井女学校卒業後は母校の教員となりました。1888年の「明治二十一年十一月調『京浜間女学校職員表』」には「教員 福島仲○(中略)○長谷川きた○(後略)」と記されています。後に和久山駒が「遠き思出」に「午前中は英語の教授にて二十八番地に住む上級の人々即ち(中略)先年故人となられし長谷川喜多子さんなどが、赤い帯に、すそ長に着た衣服に、靴ばきといふ当時最もハイカラの風俗をして教授された。其英語の達者なる事と所謂垢抜けした風俗とは如何に私の羨望する処であったろう。」と、当時の長谷川先生の姿を記しています。
この頃全国各地で女学校設立が相次ぎ、長谷川先生も高田女学校に新任教員として赴任してゆきました。高田女学校時代の三谷民子との近しい関係をほんの少しだけうかがわせる一行が、三谷民子の1892年5月9日の項に見られます。「五月九日 長谷川姉(きた子)より写真来たる。」三宅民子とは生涯の親友となります。
1896年、東京に戻ってきた長谷川先生は東京女学館高等女学科に英語教諭として赴任します。6年間ほど東京女学館につとめていたようです。また、明確な時期は分かりませんが、長谷川先生はこの前後にオックスフォード大学へ留学をしているようです。
さて、長谷川先生が正式に日本聖公会の教会員になったのは1904年。1905年に日本聖公会の女性の集まりとして設立された婦人いずみ会で初代書記に選ばれ、1909年には副会長に選出されています。また、聖ステパノ教会と京橋聖十字教会が喜望教会と合同して1912年に生まれた三光教会に1921年「母の会」が創立された際は、会長に選ばれました。時期は前後しますが、1906年夏には一年間の予定で英国の婦人教育事業等視察のために渡航、1907年11月15日に無事帰国した記事が残されています。
香蘭女学校に長谷川先生が奉職したのは1918年頃だと思われます。女子教育の第一人者として鳴り物入りで香蘭女学校に赴任された長谷川先生はすぐに教頭となり、長橋政太郎第2代校長とともに香蘭女学校を先頭に立って引っ張ってゆくこととなります。授業は英語と聖書を受け持っていました。当時のお住まいは日本聖公会の寄宿舎である聖マリア館でした。
女子補導団(現ガールスカウト)東京第一組の学校の教頭として、女子補導団活動にも協力を惜しまなかった長谷川先生は、ガールスカウトの歴史にもその名を留めています。
1915年に結成されスイス・ジュネーブに本部を置く世界最古の女性平和団体「婦人国際平和自由連盟」(WILPF)に日本は1921年5月正式に加入し、そのワシントンで行われた第4回国際会議に出席したのが長谷川先生でした。香蘭女学校の教頭だったこの時期に、まさに日本の女性運動のトップに立っていたのが長谷川先生だったのです。
1925年3月、欧米訪問から帰国して数日後の25日、長谷川先生は病を得て現職の教頭のまま急逝されました。後に副校長となる宣教師ミス タナーは次のような回想を記しています。「We had a very wonderful sensei here for about seven years; her photograph is also in the Hall. Hasegawa Kitako San. Her knowledge of English and ability to understand and speak it were exceptional. It was a great blow to us when she died, in March 1925, two years after the earthquake.」副校長と教頭という関係で一緒に仕事をされたミス タナーのこのことばに、長谷川先生に対する最大限の評価があらわれています。この ミス タナーはその後も長谷川喜多子先生のことに触れ、最大限の讃辞を送っています。「1925年に長谷川喜多子先生が逝去されましたことは、私共にとって大変な損失でした。私共は長橋先生が御隠退後は、先生が後を継がれるものと考えておりました。」
卒業生もこの頃を振り返って、教頭であった長谷川喜多子先生のことを忘れがたく書き綴っています。その一部を紹介しましょう。

●朝毎に、長橋校長先生や長谷川先生が講壇の上に謙虚に跪かれて祈ってくださってからその日の授業が始まるのでした。 【29回生 宮地(旧姓:岡見)奈美】
●長谷川先生が新任された時は素晴しい先生が来て下さったと随分張り切って英語の勉強をしたものです。 【30回生 辰巳(旧姓:阿部)浜子、日本初の料理研究家】
●私共五年生の秋に初めて修学旅行が許されましたのも進歩的な教頭長谷川先生の御力によるものと伺いました。長谷川先生は全くステキの一言につきる香蘭のホープでいらっしゃいましたが私共卒業を前にして欧洲に於ける婦人会議に我が国代表として御出席され御帰朝後数日にして急逝された事は生徒一同にはこの上ない失望でございました。のみならず香蘭の為には一大損失でございました。 【32回生 入江(旧姓:堀江)静子】
●教頭で又女子教育代表者の第一人者であられた長谷川喜多子先生の御急逝も惜しみて余りあるものでした。 【34回生 秦(旧姓:大井)ユリ】
●運動場に沿って小高い所に、もう一つ長谷川先生の寄宿舎というのがあって、そこには先生の親戚、友人の子女が数名入っておられましたが、学校の寄宿とはかなり生活が異っていました。当時、長谷川喜多子先生は教頭でしたが私が入舎して間もなく、脳卒中で亡くなられました。 【36回生 山本(旧姓:岩井)清子】

全力疾走で生涯を駆け抜けた長谷川喜多子先生。香蘭女学校の教頭としてのみならず、日本の女性平和国際運動の旗手として多くの女性たちから多大な期待を寄せられて、それに力強く応えてきた人生だったと言えましょう。

(写真は左より、長谷川喜多子教頭、高田女学校時代の長谷川喜多子先生、三宅民子先生)

2018年度中等科入学試験・合格発表が終了しました2018年02月19日掲載

2018年度の中等科入学試験がこの2月1日に実施されました。例年通り筆記試験(2科・4科の選択)とグループ面接が行われました。
この日の夜からは雪という天気予報ではありましたが、受験生が登校する時間は晴れて、厳しく冷えこんだものの天気に恵まれた朝でした。受験生はエントランス前で保護者の方としばしの別れ。ご案内の高等科3年生に声をかけられて、緊張していた受験生も少し落ち着けたようでした。また、試験と試験の間や面接との間の休み時間も、高等科3年生が優しく気を配り見守っていました。試験は予定通り進み無事終了しました。
2月2日朝9時から学校ホームページによる合格発表、午後1時から掲示板発表を行いました。
なお、午前9時からのホームページによる入学試験合格発表が準備の手違いにより遅れてしまい、皆様に大変ご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます。

来年度の生徒会役員選挙実施 ~自治意識を育てる~2018年02月18日掲載

来る2018年度の中等科・高等科生徒会役員選挙がいよいよ行われました。
まず1月17日は、1月10日に公示されていた来年度高等科生徒会の選挙の立会演説・投票が行われ、引き続き1月24日には17日に公示された来年度中等科生徒会の選挙の立会演説・投票が実施されました。
1月24日のホームルームの時間、現中等科1・2年生が全員揃った礼拝堂で行われた中等科生徒会選挙の立会演説会は、まず中等科2年生の選挙管理委員長による司会、選挙管理委員による開会のお祈りで始まり、引き続き会長・副会長・会計・書記の各役職の中等科1・2年生の立候補者が、それぞれ堂々と自分の施策を述べていました。さらに、中等科・高等科生徒会共通の役員としてヒルダ祭運営副委員長の中等科3年生の立候補者も同様に演説をしました。質疑応答の時間をとった後、最後に全員が起立して選挙管理委員による閉会の祈りをもって立会演説会は終了しました。
教室に戻っての投票も、自分たちのこれからの学校生活に深くかかわる役員とあって、真剣そのものでした。各クラスの選挙管理委員が投票後の開票作業を厳正に進め、1月25日朝には結果が発表されました。
学校全体の代表として、今回の高等科・中等科生徒会選挙で選ばれた生徒たちが、2018年度に副委員長をつとめてそのまま次年度も持ち上がりでつとめることになるヒルダ祭運営委員長、さらに2018年度が始まってからすぐに選ばれる新中等科1年生の役員と一緒に、この春から一年間の香蘭女学校での自治活動を行います。
生徒会活動は、中学生高校生の自治意識を育て、将来社会に出てからそれぞれ責任を持って自分の社会的役割を果たすと同時に、周囲の人々と手を携えてその役割を共に担いながら社会生活を自分たちの手で作り上げて行くことができるよう、大切な教育の場となっています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(20)2018年02月17日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第16回です。

《香蘭女学校の歴史 16 聖歌隊(現在のクワイヤー)を創設したミセス スパックマン》

現在のガールスカウトにあたる女子補導会が日本で初めて香蘭女学校に誕生した1920年、この同じ年に同じく香蘭女学校には現在のクワイヤーにあたる聖歌隊が創設されました。この香蘭女学校聖歌隊を創設したのが、音楽教師のミセス ウィニフレッド・スパックマンです。
ミセス スパックマンは宣教師ではありませんが、その夫はThe Board of Missions of the Protestant Episcopal Churchの宣教師としてイギリスから派遣されたハロルド スパックマン司祭で、1912年に西池袋に移転した聖公会神学院に妻や娘とともに住んでいました。
当時の聖歌隊の記録は、現在全く残っていませんが、その創設者であるミセス スパックマンについては、後に卒業生がいろいろと思い出として書き綴っています。ここでは、その一部を転載して、当時のミセス スパックマン先生の人となりを思い起こしてみたいと思います。

●唱歌のミセス・スパークマンにはお首の長いところから「鶴サン」のニックネームなど秘かに奉っていた。 【25回生 柏(旧姓:星)倭文子】
●音楽の先生でミセス・スパークマンと云う首の長い先生はとてもきれいな先生で生徒中の評判でございました。いつもお帰り頃には御主人であるミスタ・スパークマンがお迎えにわざわざ学校迄お越しになり奥様にコートをかけたり靴のひもを結んで上げたりなさるので私達にはそれが可笑しくてよくのぞきにまいりましたものです。今の時代でしたら何でもない事なのですが当時の私達には不思議に感じたのでございましょう。 【26回生 島田(旧姓:川上)友兄】
●先生(ミス・タナー)の伴奏でお美しいミセス・スパックマンから数多くの英国の古い歌や詩、クリスマスカロル、シェイクスピヤの歌曲等本当に楽しく今でも口吟むほどよく教えて下さいました。 【32回生 入江(旧姓:堀江)静子】
●昨年秋の校友会に私共クラスがお当番に当りましたので、何か余興をと考えた末、三十何年も前にミセス・スパックマンに御習いしたなつかしい英国の歌の数々を思い出し、これを白髪になった生徒達が昔に返って歌ってみましょうという事になったのです。急に若やいだ愉しい気分になって「スイート・アンド・ロー」だの「フー・イズ・シルヴィア」などを部屋に籠って唱ってみる有様、家の者は目を丸くしていました。 【33回生 森(旧姓:森)雛子】
●夢の様な英国の子守歌その他を教えてくださった美しくて首の長いミセス・スパックマン【36回生 二宮(旧姓:山田)章子】
●静かに耳を澄ましていると聞こえてくるような歌声、それは香蘭の生徒時代に習った歌「White Sheep」。校門の正門玄関の真上に講堂があった。毎朝の礼拝は勿論のこと、同交会、バザー当日の小音楽会(N響)、学年単位で歌うクリスマスキャロルなど、この講堂には数々の思い出が残っていた。然し最も印象的なのが音楽の授業であった。いつもにこやかなミセス・スパックマン、胸の両わきに手を当てて、先ず呼吸法から始まる。そして全く変わっていたこと、それはオタマジャクシの音符ではなかった。黒板に大きく板書してあるのは音符に代わるべく、ドレミファ(drmf)の頭文字の記号である。記号によって音を出しうたうのである。時々先生はピアノのキーを二つ三つたたかれて今のは何の音であるかを質問なさった。日本語の歌は校歌以外全く習わなかった。歌詞は英語の授業と関連づけて暗誦することになっている。五年間も記入しつづけていた一冊のノートは残念ながら今手許にはない。ミセス・スパックマンのあの美しいお声が今でも耳許に残っている。白金の母校の懐かしい思い出、英唱歌「White Sheep」。広いひろい青空に浮かんでいる真白い雲 White Sheep。私の心の歌としていつまでも歌いつづけていきたい。 【42回生・旧教員 赤津(旧姓:根本)八千代】
●音楽は広い講堂の前の方で、私共は2クラス80名が一緒だった。その頃生徒数は1年毎に40名と80名が交互であった。始めは志保沢先生や稲田先生がついてくださった。ミセス・スパックマンは日本語がお上手でなかったから。長いお頸の上の小さな顔、真中から分けられた短い銀髪の先生。デシンのローズ色のブラウスがよくお似合いの美しい方毎週着替えられる素敵な装いがたのしみだった。御自分の銀髪を指して、「これは白髪ではありませんね、心配してなったのでもありません。始めからですね。」と眼鏡の細い金の鎖をゆらせて微笑されたお顔は少女のようだった。 【49回生 田澤(旧姓:田沢)澄子】
●音楽のミセス・スパックマンには頭で声を出す様にと御指導を受けました。 【50回生 石黒(旧姓:吉嶋)文江】
●音楽は英語の時間と密接な関係がある。殆んどが英語の歌。先ず言葉を暗誦、次に、ミセス・スパックマン独特のおたまじゃくしならぬドレミの譜で節をおならいし、合わせる。広い講堂の檀上で先生が両手を胸に Breathe in! Breathe out! を繰返し乍ら大きな息を吸ったり吐いたりなさったこと、「アタマノコエ!」と高いお鼻の中程を拇指と中指とで引張る様になさったことなど、昨日の様になつかしい。 【50回生 高井(旧姓:立入)陽子】

なお、1920年頃の成蹊女学校(当時、目白にあった。現在は武蔵野市吉祥寺にある成蹊学園)の記録の中にミセス スパックマンの名前が散見されますが、同一人物であるかどうかは今のところ確認できていません。
香蘭女学校聖歌隊はその後、恐らく戦争へ向かいキリスト教が弾圧対象となる時勢に押されて消滅していったと思われます。戦後に聖歌隊が再編成されるのには、1977年まで待たねばなりませんでした。そして、香蘭女学校創立100周年を機にその名をクワイヤーに改め、今日に至っています。ミセス スパックマンの志は、現在もいろいろな礼拝奉仕の役割を聖歌などの奉唱を捧げることで、確実に引き継いでいます。

(写真は左より、ミセス スパックマン、ミセス スパックマンと愛嬢キャサリン、赤津八千代先生が記憶を頼りに記譜された「White Sheep」の楽譜)

20㎝を超える積雪があった寒い日の香蘭女学校2018年02月16日掲載

今年の冬は例年になく寒く、この1月22日には天気予報よりも早い時間から雪が降り始め、午後には校庭にどんどん雪が積もり始めました。交通機関の混乱が見込まれるため、香蘭女学校では午後の授業を短縮授業とし、いつもより早い6時間目終了後すぐに下校という措置をとりました。
久しぶりの降雪に大喜びの生徒たちは、休み時間がくると待ちきれない様子で校庭に走り出る者も多数いて、ちょっとした祝祭日のような一日となりました。
あっという間に校内は一面銀世界となり、レンガ作りの校舎の色と美しいコントラストを見せていました。この日の東京都心の積雪は23㎝に達しました。
翌日は氷点下の極寒の朝を迎えましたが、香蘭女学校では登校時間を遅らせ昼過ぎに全校礼拝を捧げて、5時間目からの授業開始となりました。その礼拝までの時間も、校庭は雪遊びをする生徒たちで溢れかえっていました。
この冬はこれからも、寒い日々が続きそうです。

1月下旬に入り芝蘭庵前のウメの花が咲き始めました2018年02月15日掲載

三学期が始まり二週間余が過ぎて1月下旬に入り、茶室「芝蘭庵」の前にあるウメの樹の小さな蕾が開き始めました。他の枝にも次々と蕾がつき始めているので、これからいよいよ春先らしい景色が展開されることでしょう。
校門からアプローチを歩いて左側、上述の芝蘭庵前のウメの並びに、アセビの花が咲き始めた様子も見てとれます。こちらも春の花の代表選手です。
一方、築山に足を踏み入れると、井戸の手前にあるヒイラギナンテンの樹にも花の蕾が膨らみ始めています。いずれ薄黄色い小さなたくさんの花がついて、濃緑色の棘のある葉と好対照を見せてくれるはずです。
1月22日に降って23センチ以上も積もった雪と、例年をはるかに超える低温の中でも、草木たちは全くそれをモノともせず、生命本来のエネルギーを漲らせて、力強く春に向かって確かな歩みを見せてくれています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(19)2018年02月14日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第15回です。

《香蘭女学校の歴史 15 日本初のガールスカウトが香蘭女学校で発足》

白金三光町に香蘭女学校が移転してから7年経った1919年、イギリスから英語の教師としてミス マリエル・グリンストリートが就任しました。イギリスのガールガイドの一級指導者であるミス グリンストリートは、香蘭女学校の教員になって早々から日本でのガールガイド運動の準備を開始しました。この時その準備は、イギリスのC・М・S(Church Missionary Society、教会伝道協会あるいは宣教協会)から派遣された麹町インマヌエル教会のウィリアム・ペンガリー・バンカム司祭(63歳)の夫人を責任者とし、また香蘭女学校教員の荒畑元子(香蘭女学校10回生、香蘭女学校教員)の協力を得て進められました。その時12名の日本人女性がグリンストリートやバンカム夫人らとともに月曜日ごとに会って、どのようにしたらこのガールガイド活動ができるかの学習会をしたようです。今日残されている資料によると、ミス グリンストリートは後に、「当時、まだ若い教師だったわたしは、リリーフの教師として3年間、東京の香蘭女学校で教鞭をとるため、日本に渡りました。(中略)少女のクラブの様なものが何もないことに気がついたわたしは、やがてリーダーとなるべき人々の手助けを得て」女子補導会を始めたと述べており、またグリンストリートの後継の女子補導団指導者であったミス テオドラ・キャロライン・ウィリアムズ(1920年当時32歳)はS・P・G(The Society for the propagation of the Gospel、福音宣布協会あるいは福音伝播協会)の女性活動として「クリスチャンの少女たちと探求者たちがガールガイドを始め、また募集を行っている。ミス・グリンストリートとミス・アラハタは学校内でミーティングを行い、OGのひとりはブラウニーを始めた。ガールガイドは、この学校の同窓意識のために限定されたものではないけれど、わが校の少女たちとミス・ホーガンの学校の何人かは活動をすすめるための班をつくった。少女たちはこの活動にひじょうに熱心である」と、母国に報告しています。
日本での活動を、イギリスのガールガイドという名称を和訳して「女子補導会」と命名し、その準備の会が1919年に聖アンデレ教会の庭で行われたようです。そして翌1920年1月30日についに、日本初のガールガイドである「女子補導会」東京第一組が、イギリスのガールガイド連盟の日本支部として、香蘭女学校で発足しました。
女子補導会東京第一組は人数が多かったので、主に教会員である生徒たちは、同じく教会員であったお茶の水女子高等師範学校附属や東京女学館の生徒たちと一緒に、檜垣茂(香蘭女学校10回生、香蘭女学校教員、東京女学館教員)をリーダーとして、毎週金曜日に聖アンデレ教会で集会を持ち、縄結び・包帯巻きなど基本的なことを学ぶグループとして、別活動を始めました。このグループと区別するために、元々の香蘭女学校の東京第一組を東京第一組a、聖アンデレ教会で活動したグループを東京第一組bと呼称するようになりました。香蘭女学校の東京第一組は、組長には原則としてイギリスから派遣された聖公会の女性宣教師が、そして副組長には日本人女性として香蘭女学校の教員や卒業生が就任しました。
戦前の東京第一組組長には、上記のミス グリンストリート、ミス ウィリアムズのほか、香蘭女学校の宣教師・教員としてこのコーナーで後にご紹介することになるミス エミー キャサリン ウーレー(1920年当時33歳)、ミス メリー エレノア ヘイルストン(1920年当時31歳)が就任しています。また、副組長には上記の荒畑元子、石田(後に高橋)光子(香蘭女学校29回生)、竹井(後に森山)富美子(同30回生、女子補導団事務局員)、関根(後に宮澤)八千代(同32回生)、森ひな子(同33回生)、木藤(後に松本)信代(同教員)、桜井(後に吉田)澄子(同33回生、戦後にガールスカウト日本連盟第2代会長)、稲田旭子(同38回生)、龍崎恭子(同教員)が就任しています。このほかの発足当初からのメンバーには、細貝(後に黒瀬)のぶ(同31回生。女優の細川ちか子と同級)やその妹の細貝なお(同35回生)などがいました。
また、上記の檜垣茂や細貝のぶは、聖アンデレ教会の東京第一組bでもリーダーをつとめています。また、聖ヒルダ瑶光ホーム(1910年に閉鎖された香蘭女学校内の清蕙幼女学校の代わりに聖ヒルダ伝道団が作った身寄りのない子どもたちのための施設)で1921年に発足した東京第一組ブラウニーでは、香蘭女学校のミス ウーレーが指導者をつとめています。さらに香蘭女学校の中には東京第二組も誕生しました。こちらは組長こそミス グリンストリートでしたが、ここに集まって活動をしたのは香蘭女学校のすぐ近所にあった聖心女子学院に在籍するイギリス人をはじめとする外国人生徒と女子学習院の生徒たちでした。また、牛込の聖バルナバ教会で発足した東京第三組は、1901年から香蘭女学校の教員をつとめているミス エリナ・グラディス・フィリップス(1920年当時48歳)がその中心となって活動が始められ、ミス フィリップスが日本女子大学校の教員にも就任したため、主に日本女子大付属女学校の生徒や日本女子大生などに呼びかけが行われ、香蘭女学校寄宿舎の舎監である三田庸子も協力をしました。東京第四組は東京女学館生徒を中心に始められ、当時はまだ東京女学館教員だった上記のミス ウーレーが指導にあたり、後にミス ウーレーは香蘭女学校へ移籍し、戦後まで香蘭女学校教員としてガールスカウトに中心的役割を果たし続けます。またこの東京第四組では、上記の檜垣茂も指導にあたりました。
当時の制服は、紺無地のメリンスの和服と袴というものだったという記録も残っています。また、1920年夏には福島県猪苗代湖畔にあったミス エレノア・ディクソン(聖アンデレ教会の女性宣教師)の別荘でキャンプが敢行され、そのキャンプには香蘭女学校副校長のミス ルーシー・キャサリン・タナー(1920年現在47歳)も指導者の一人として参加し、また東京第一組のメンバーのほかに桜井くに(香蘭女学校29回生。戦後動物学の翻訳に携わる)ら香蘭生やその他の女生徒たちが参加しました。活動プログラムとしては、磐梯山登山、湖で水泳、湖畔の松林で野外炊飯、湖畔半周ハイキング、翁島へのハイキング、植物採集、押花整理、朝晩の礼拝、郡山聖ペテロ・聖パウロ教会の日曜礼拝出席、道しるべ追跡、疎水の川幅計測、食事・料理当番実習などが実施されています。また、1922年5月には香蘭女学校内で初のラリーが行われました。
イギリスのガールガイド連盟日本支部として活動していた女子補導会は、1923年にはより全国的な活動とキリスト教を超えた活動を明文化して、「日本女子補導団」に改組されました。その後、戦後にGHQの積極的な関与によってガールスカウトとして再出発して、今日に至っています。現在も香蘭女学校の校内団であるガールスカウトは、東京都第1団として活動をし、2020年のガールスカウト発足100周年に向けての準備を進めています。

(写真は左上より、香蘭女学校で発足した女子補導会 最前列右から6人目:ミス グリンストリート、ミス グリンストリート、荒畑元子先生、1920年の女子補導会東京第一組、1922年実施の初のラリー 中央:ミス グリンストリート、1924年の女子補導団 上から1列目左から4人目:細貝なお、2列目左から4人目:竹井富美子、同5人目:檜垣茂、同6人目:桜井くに、上から3列目左から2人目:ミス ウーレー、同5人目:ミス ヘイルストン、同6人目:細貝のぶ)

第7回キリスト教学校合同フェア(3月21日)に参加します2018年02月13日掲載

東京都にあるカトリック学校(28校)とプロテスタント学校(22校)が参加して開催される「第7回キリスト教学校合同フェア」が3月21日(祝・水)に、青山学院高等部校舎で今年も行われます。香蘭女学校はこのフェアに参加します。開催時間は、10時00分から15時00分までです。
当日は、香蘭女学校の個別相談ブースで、学校の様子、教育内容、中等科入試についてなど、担当教員が丁寧にご説明します。また、4階エントランスに於いて、参加校による5分間スピーチリレーにも参加します。香蘭女学校のスピーチは10時51分からと、13時15分からに予定されています。
(詳しくは下の 《キリスト教学校合同フェア》 をクリックしてください。

《キリスト教学校合同フェア》

(写真は青山学院高等部校舎<キリスト教学校合同フェアホームページより転載>)

高等科3年生特別プログラム高大連携 - シティズンシップ2018年02月12日掲載

今年度も三学期に高等科3年生の特別プログラムが始まりました。
昨年度からこの高等科3年特別プログラムに新たに加わったのが高大連携の授業です。そして今年度も昨年度同様、立教大学サービスラーニングセンターの講義「シティズンシップを考える」(小玉重夫教授)に参加しています。自ら行動する市民を育成するための講座ですが、その名の通り、色々な社会問題について大学生と一緒に考察をし、議論・意見交換をします。
初回の1月12日は立教大学の学生から話し合いのテーマと意見が提示され、19日には香蘭生側から新たな視点や解決策の提案を行いました。昨年度は「18歳選挙権について」「SNS教育について」などがテーマでしたが、今年度の話し合いのテーマには「授業料の無償化」「早期英語教育について」「沖縄の基地問題」「ヘイトスピーチを考える」といった様々なものがあり、高校生と大学生という違う立場からの意見交換を行いました。
今年度は大学生側として参加している学生の中に香蘭女学校の卒業生が数人いて、高等科3年生には卒業した上級生たちと話す良い機会にもなりました。
今年度も参加者のうちの2名が、3月に行われる日本シティズンシップ教育フォーラムにて発表を行うことになります。

高等科3年生のお茶会 - 三学期第1回を開催2018年02月11日掲載

香蘭女学校の「芝蘭庵」は、関東にある学校としては大変に珍しい、学校内に独立した建物としてつくられたお茶室です。在校生だけでなく校友生や保護者にも、また来客があるとその都度、様々なお茶会が開かれます。高等科3年生学年生徒全員を招待してのお茶会は、二~三学期に数回に分けて行われています。今年で11年目になりました。 この1月17日、三学期の第1回(今年度通算3回目)お茶会が開かれました。
茶道部の生徒やSE学習の茶道講座を受講した生徒がお茶会の亭主や半東、待合での説明等を担当してお茶会を行いました。
参加した生徒たちは、待合となっているビカステス記念館のサロンで茶道の手順や心得の説明を受けた後しばし休みをとり、それから露地門を通り、腰掛待合の前の茶庭の踏み石の上を歩いて茶室に向かいます。茶室「芝蘭庵」の躙り口から入り、いよいよお点前の接待を受けます。お菓子をいただく時もお茶を一服いただく時も、生徒はとても嬉しそうに、美味しそうにいただき、会話も心なしか普段より緊張しながらも弾み、実に楽しい豊かな時間となっていました。
日本文化を大切にした100年以上前の英国人宣教師たちの心を今に伝える、「芝蘭庵」でのお茶会です。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(18)2018年02月10日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第14回です。

《香蘭女学校の歴史 14 時間数を半減させざるを得なくなった英語の授業》

白金三光町の新校舎で1912年から授業が始められました。
麻布永坂時代の授業は、1902年と1903年に変更された校内制度に従って行われていました。その制度とは、まず1902年の制度では、全学科を「英語科」と「邦語科」に分けて、月曜・水曜・金曜の3日は「英語科」の日として聖書・英語・音楽・体操の授業に充て、火曜・木曜・土曜の3日は「邦語科」の日として国語・漢文・歴史・地理・理科・家政などの諸学科を教えるというものでした。「英語科」の日の授業はすべて英語で行いました。1903年には学科課程が改訂され、それまで予科2年のあと本科4年だったものを、予科2年・本科6年に改め、その中で英語の授業時間数を大幅に増やすことになりました。本科3年生になるとそれまで「邦語科」に入れられていた理科の一部が英語で、4年生になると全て英語で教授され、さらに4年生では同じく「邦語科」の地理の一部が英語で、5年生になると全て英語で教授されるようになりました。また他の重要学科の授業時間数も高等女学校に劣らず多く、英語以外でも数学の授業は特に重視されました。
ただ1910年の校舎焼失直前に学則が変更され、修業年限1年の高等科が本科の上に置かれ、同時に本科の修業年限を5年に変更し、予科が廃止されました。高等科の第1回卒業式は、麻布永坂の仮校舎で1911年に挙行されています。
白金三光町時代初期の教育の大きな転換期は、1917年に訪れます。これに先立つ1899年8月3日に発令された私立学校令と抱き合わせで出された「訓令第12号」がその転換への引き金となります。1894年に日本と欧米の間で調印された通商航海条約の発布期限が1899年8月4日に迫る中、この条約の中に定められた外国人居留地廃止に伴い外国人内地雑居が始まることに反発した仏教界に対処するために明治政府が打ち出した国家主義教育を実現するために、さまざまな会議を経て発令されたものが宗教教育禁止を全面に掲げた「訓令第12号」です。その中に「一般の教育を宗教外に特立せしむる件」という内容が記されています。多くのミッション・スクールは、この訓令への対応に苦慮し、建学の精神と学校の存続を天秤にかけた危機的な状況を迎えます。香蘭女学校はこの時には、迷うことなくミッション・スクールとしての本義を貫き、文部省認可の私立学校としての認可を返上することにしました。このことは、高等学校への受験資格を持たない各種学校になるという道でした。
1903年には専門学校令が公布されて、日本女子大学校(現在の日本女子大学)や女子英学塾(現在の津田塾大学)などが専門学校となり、その卒業生の中にはさらに上級学校へ進学する者も出ました。しかし、香蘭女学校は各種学校のままであったため、卒業生がこの専門学校を受験するためには検定試験に合格するか、あるいは文部省から高等女学校卒業と同等以上の学力を有する者という指定を受ける必要がありました。
そこで香蘭女学校は1915年11月2日、井上友一東京府知事宛てに「専門学校入学者無試験検定願」を提出することにしました。そのために、これまでと異なり高等女学校の教育課程に準じるカリキュラムに変更する必要が生じて、これまで他の学校よりも多く置いていた英語の授業時間を大幅に削減したものに改訂せざるを得なくなりました。ちなみに、それまでのカリキュラムで週12時間ずつ英語が置かれていましたが、この改訂後は半分の週6時間ずつになってしまいました。
しかし、1917年6月に文部省より「専門学校入学者検定規程」第8条第1号による指定を受けることができ、これにより香蘭女学校卒業生の上級学校への進学の道が開けることになりました。
香蘭女学校の授業の中心であった英語の時間数が減ったカリキュラムであっても、限られた時間数の中でミス ルーシー・キャサリン・タナー(1912年現在39歳)やミス テオドラ・キャロライン・ウィリアムズ(後のシスター・テオドラ、1913年来日時25歳)など英国から来た女性宣教師の先生方が中心となって充実した英語教育が行われました。例えば、当時生徒が学んだ英語の歌と英詩の下記のようなリストが残っています。(英語のスペリングは原資料のママ)
SONGS LIST
1. Away in a Manger,
2. Baby’s bauts a silver moon,
3. Bye baby bauntlig,
4. Diddle diddle dumpling,
5. Gone is the winter gone is the snow,
6. Good king Wenceslas,
7. Holy night,
8. How sweet is the shepherd’s
POEMS LIST
1. The monthes.
2. Baby seed Song,
3. The Litle lark.
4. The Pied Piper of Hamelin.
5. The Dreadful story abut Harriet
6. The spider and butturfly
7. The land of Counterpane.
8. The Battle of the Baltic
9. Little boy blue
このうち最初の歌「Away in a Manger」は、現在もクリスマス礼拝の中で中等科1年生全員が原語で歌っているクリスマス・キャロルです。

(写真は左上より、ミス タナー、ミス ウィリアムズ、英語劇「ベニスの商人」の出演者たち)

高等科3年生がお手伝いをして三学期も中等科学習会2018年02月09日掲載

前にもこのホームページでご報告しましたように、今年度も例年通り二学期中間テスト以降、中等科1~3年生で毎週放課後、学習会が行われ、そこに立教大学進学が既に内定した高等科3年生が、学習ボランティアとして参加して中等科の生徒たちの学習のアシスタントをしてくれています。
年が明けて三学期の学習会も、いよいよスタートしました。三学期も二学期同様、中等科1・2年生にはそれぞれ「英語」「数学」の学習会が、また中等科3年生には「英語」「数学」「古典文法」の学習会が置かれています。
二学期とは参加する中等科の生徒たちの顔ぶれも変わりましたが、すぐに先輩たちにも慣れて、わからないところはすぐにしっかり質問をしていました。また、高等科3年生の方も身振り手振りをまじえたり、途中に適宜お話タイムを挿入したりしながら、緩急自在に学習指導をしていました。自分でオリジナルの説明カードを作成してきて、それを後輩の生徒に見せながら教えている高等科3年生もいました。中等科の生徒にとっても高等科3年生の生徒にとっても、学ぶところの多い学習会です。
この中等科学習会は、今年度も2月いっぱい続けられます。

全校礼拝の中で「沖縄平和学習」参加生徒が報告2018年02月08日掲載

先にこのホームページでもご報告しましたように、12月に「沖縄平和学習」が実施されました。
年が明けて1月13日朝の全校礼拝の中で、その参加者のうちの3名が全校生徒に向けて報告をしました。
最初に話をした高等科3年の生徒は、ひめゆり平和祈念資料館を訪れたことから話し始めて、ひめゆり隊の出来事を説明するとともに、沖縄戦の中に実際にいらっしゃった方々から話をうかがうことの必要を話してくれました。
2番目に話をした高等科1年の生徒は、アブチラガマを訪れ、その中に入っての感想を話してくれました。楽に死ねると諭されて青酸カリを渡され、それを飲んで苦しみながら死んでいった方もいるという重い出来事を伝えてくれました。
そして3番目に話をした中等科3年の生徒は、普天間訪問のことを話し、飛行機の爆音がすぐ近くに聞こえてくる中で、戦争の起こり得る現実が今まさに目の前にある場に立ち感じたことと、そこで暮らす普天間高校の生徒たちの声も合わせて報告してくれました。
今年度から始まった「沖縄平和学習」でしたが、次年度の第2回に向けての参加のお誘いになったのは勿論のことですが、同時に、日常の継続的な学習と議論の必要性を全校生徒に向けて訴えてくれたことは、これからの香蘭女学校の生徒たちが学校生活の中で考え話し続けてゆくべき大切なテーマ提示となりました。

全校礼拝の中で表彰式が行われました2018年02月07日掲載

冬休みが終わって、最近学校外のいろいろな賞を受賞した生徒たちの表彰が、1月12日朝の全校礼拝の中で行われました。
1つ目の表彰は、第11回「俳句の里」山梨県笛吹市全国小学生・中学生俳句会の中学生の部で、山梨県議議長賞を受賞した中等科1年生の表彰でした。
2つ目の表彰は、明治神宮書道会主催の第64回全国少年新春書道展で特選を受賞した中等科2年生の表彰でした。明治神宮書道会の書道展での受賞は、毎年恒例になっています。
3つ目の表彰は、先にこのホームページ上でもご紹介しました第17回「~賢治のまちから~ 全国高校生童話大賞」(全国高校生童話大賞実行委員会・富士大学・花巻市・花巻市教育委員会 主催)で銀の星賞を受賞した高等科1年生の表彰でした。
そして最後は、ソフトテニスの大会で準優勝等だった高等科1年生の生徒たちの表彰でした。
生徒たちは、それぞれの分野で自分の能力を精一杯発揮して、成果をあげています。また、その成果を全校生徒でともに喜ぶというこの機会は、学校生活の中で一つの大切な場面となっています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(17)2018年02月06日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第13回です。

《香蘭女学校の歴史 13 白金三光町へ移る頃の授業の様子 ~生徒の生の声~》

麻布永坂の創立以来の校舎が焼失し、二年後に白金三光町に学校が移転したちょうどその頃、香蘭女学校の授業の様子紹介が毎年、学校の広報誌に活字になって掲載されていました。「本科三年生当番日記」と題されたこのコーナーには、次のようなリード文が付されていました。
「この日記は、本科三年生一同申し合わせ、第一学期より間断なく毎日当番を立てて書き続けるものの中の一部分なるが、修飾せず、忌憚せず、思う事を書きなせる、なかなかに趣味深き心地せらる、よりてこれを登載す。」
当時の香蘭女学校の生徒たちの生の声が聞ける貴重なコーナーだったようです。今回はそのごく一部をここに転載して、明治から大正へ移る頃の香蘭女学校の授業の様子をご紹介しましょう。
■(1912年)4月13日 土曜日 晴   当番 阿部八重子
第二時間 東洋史 齋藤先生
東洋史の御稽古も齋藤先生に教えていただくのもこの時間が初めてで御座いました。今日はまだ初めてだからとおっしゃって先生が本を読んで下さいました。そうして支那の舜帝が大変に孝行な人であったという面白いお話を伺いました。
第三時間 文法 富田先生
今日文法のあることを知りませんでどなたも本を持っていらっしゃいませんでしたからお稽古をすることが出来ず先生の御許しが出て一時間運動場で遊びました。春風は暖かく吹き渡り蝶々は花に近づいたり遠ざかったりヒラヒラと舞って居りました。誠に春らしい気持ちのよい日で御座いました。
第四時間 作法 堀先生
今日はお作法は致しませんでしたがその代わりに私共の言葉や行いについての有益な御話を伺いまことに嬉しく思いました。
■(1912年)6月11日 火曜日 曇   当番 田中つな子
今日は何となく気の進まない日でしたが今迄の晴々した日に馴れたためか殊更に嫌でした。そのために皆様眠そうなお顔をしてお稽古時間にあくびをしていらっしゃる方も多く見受けました。いつもの鐘が校内にひびき渡りましたので行く足も遅く手芸部のお祈室へ行きました。今日はいつも長橋校長の路加伝のお話がある筈でしたが質素にすること及び白粉をよすことについてのお話がございました。
第一時間 地理 牧野先生
今日の陰気に引き代え私共の始の時間には校中第一の快活との名が高い牧野先生のお稽古なので私共の教室だけには元気よいお声が溢れ今迄の嫌な感じは清涼剤をのんだ様に忘られました。独逸の住民から地方誌の半まで致しました。
第二時間 算術 高田先生
今日は三学年になってから初めての算術の試験なので皆様が一生懸命に温習っていらっしゃる御様子は大なる意気がおありになりそうに見えました。折よく一年の方は唱歌のため焼け残りの食堂の方へいらっしゃいましたので幸と一年の教室で致しました。総てで三題でしたが皆様終のには悩まされて居られる様でした。早く出来た方は小雨が降って居るのにもかかわらず外に出てお互いに結果を話し合って居られました。
第三時間 国語 齋藤先生
第十一課質素を前田さん、伊藤さんと私とで読み先生は我が国財政のことをお話しになり私等が質素という観念が脳裏に深く刻むようにお話しして下さいましたので心に何処までも質素にしようという覚悟を致した様な次第でした。
第四時間 化学 高田先生
第十節炭酸ガスの一の所だけ致しました。伺って居るのは嫌ですが化学は一時に多くの新知識が得られると思いました。外を職人が大木をヨッチョイヨッチョイとかけ声で通りました。独りひそかに笑う方も少なくありませんでした。少し早く仕舞て下さいましたのでこの時ばかりは殊更よい先生と思ったその間終の鐘はジャランジャランと鳴り渡りました。午後の休時間にはあちこちによってお話を致しました。
第五時間 修身 長橋先生
第六節納税のことを致しましたがなかなか難しい字が使用してございますのでそのお講義をくわしく黒板にお書きになりました。少し早く六節を致して仕舞いましたから一生徒の父兄から来た手紙をお読みになりそれについての感想をおのべになりました。
■(1912年)10月26日 土曜日 晴   当番 内藤正子
第一時間 作法 堀先生
まだおじぎのしかたが上手に出来ませんので一人ずつ出て致しましたが上手にお出来になった方が多かったので他のを習いました。それは 両陛下の御写真を拝すのです。二人ずつでお床間を見上げて最敬礼をするのです。それがお写真の無いお床を見上げるのですから何だかおかしゅう御座いました。もうあとお二人という時に鐘がなりましたのでおあずかりになりました。
第二時間 東洋歴史 齋藤先生
先生がいらっしゃったらすぐに今日は何だか参観者がいらっしゃった様子ですからそのつもりでいらっしゃいといって下さいましたので皆でそれではなるたけ読まさないようにとお願いしておきました。間も無く戸ががちゃんと音がして一人の男の方が牧野先生と御一緒に入っておいでになりました。丁度その時先生は八王の乱及び十六国の乱のお話の最中でした。後で伺いましたら大阪の或る学校の校長さんでありました。
第三時間 文法 富田先生
前に代名詞が終わりましたから今日は動詞の活用を習いました。ア段とかラ行とか言ってアイウエオを縦に読んだり横に読んだりしてすらすらに言うことの出来るようにしました。そしてこれはウ段であるとかこれはサ行とか言うのです。
第四時間 国語 齋藤先生
今日は鎮守の森を先生がお講義をして下さるはずになっておりましたので半分ばかりうかがひましてあまりむずかしいのでそれは後まわしにして乃木将軍をよんで講義をうかがいましたがこれもむずかしいので又よすことに致しました。

(写真は左上より、齋藤坦藏先生、牧野清子先生、高田理先生)

「成人式感謝礼拝」を三光教会で捧げました2018年02月05日掲載

今年も「成人式感謝礼拝」を捧げる季節がやってきました。
1月8日は天気予報では雨の心配がありましたが、この礼拝が始まる時間はまだ成人式に相応しい天気で、晴れ着姿の第124回卒業生が、成人式感謝礼拝が行われる三光教会の聖堂に集まってきました。
15時の開式の鐘が鳴り終わるとともに、高橋チャプレンの司式によって感謝礼拝が始められました。祈りのことば、詩編第23編に引き続き、日課聖書(マタイによる福音書第7章7~12節)朗読に耳を傾け、そのあと全員で聖歌469番を歌いました。日課朗読も聖歌伴奏のオーガニストもともに第124回卒業生が晴れ着で奉仕しました。
次は高橋チャプレンの教話でした。まず、旧約聖書の初めに書かれている「人がひとりでいるのは良くない」という言葉に触れて、お互いに助け合い寄り添い合いながら生きる存在である私たちのあり方を問われました。そして、1915年に作られ、後に黒澤明の映画「生きる」の主題歌にもなった「ゴンドラの唄」の中の「明日の月日のないものを」「今日はふたたび 来ぬものを」という歌詞を出して、20歳の今に心を込めて生きることの大切さを話されました。さらに、今という時を年齢に関係なく共に生きていることを大事にしてほしいと訴えられ、最後に映画「風と共に去りぬ」の最後のシーンでスカーレット・オハラが言う「Tomorrow is another day」を成人式にあたって贈る言葉として第124回卒業生に捧げて教話は終わりました。チャプレンの愉快な冗談に時折どっと笑いながらも、真剣な表情で食い入るように教話を聞いていた卒業生の姿が印象的でした。
このあとマリヤの賛歌、諸祈祷、主の祈り、祝祷と続き、最後に聖歌521番を歌って感謝礼拝は終わりました。
引き続き、会場を三光教会会館に移して茶話会となりました。華やかな雰囲気の中で成人式感謝礼拝の一日が終わりました。

三学期の始業感謝礼拝を捧げました2018年02月04日掲載

冬休みも終わり2018年を迎え、三学期がスタートしました。この1月6日には三学期の始業感謝礼拝が礼拝堂で捧げられました。
久しぶりに全校生徒と全教職員が一堂に会し、オルター・ギルドの生徒によって灯が点された聖壇を前に聖歌412番を全員で歌う中、アコライト・ギルドの生徒によって先導されたプロセッションの列が入堂し、高橋チャプレンの司式により礼拝が始められました。祈りの言葉に続いて日課聖書が井上中等科教頭によって朗読されました。日課は「エレミヤ書」第29章11~14節。
続いて鈴木校長の式辞がありました。今日の日課聖書としてご自身が選んだ箇所にちなんでのお話でした。皆さんは年の初めに書き初めをしたりすることがあるでしょう、とご自身の書き初め経験も含めてお話が始まり、その書き初めの中で、今年はこんな年にしようという決意の言葉を書いたりするもので、そのようにしてこの一年の目標を立ててみることも良いのではないでしょうか。物事の節目という言い方をよくしますが、その節目で一度立ち止まって、今までを振り返るとともに、これからの展望を思ってみることはとても大切なことです。札幌農学校のクラーク博士が青年よ大志を抱けと言われましたが、大きな志を持ってこの一年を過ごそうと思うことも大切なのではないでしょうか、とお話をされました。校長先生はまた、ご自身の好きな言葉の中に「思えば近づく」というものがあると言われ、強く心の中で思ったことは実現に近づいてゆくものです、と希望に満ちたメッセージを告げられました。さらにもう一つ別の話として、震災などの天災に備える話もされました。ちょうど前日、緊急地震のアラームがあちらこちらで鳴り響いたことを例に出し、2011年3月11日以来私たちは常に心掛けてきた天災に対する備えをもう一度一人一人心掛けるようにと話されました。
式辞のあとは、校歌斉唱、諸祈祷、祝祷を捧げたあと、聖歌420番を全員で歌う中アコライト・ギルドの生徒によって先導されたリセッションの列が退堂し、オルター・ギルドが聖壇の灯を消して三学期始業礼拝は終わりました。
このあと全校生徒は各教室に戻り、いよいよ2017年度最後の新しい学期が始まりました。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(16)2018年02月03日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第12回です。

《香蘭女学校の歴史 12 白金三光町の新校舎にコンノート殿下をお迎えして落成式》

1911年12月1日、香蘭女学校は芝区白金三光町356~375番地にある2500余坪の土地を購入し、即刻登記所に今井壽道校主、長橋政太郎校長、ミス リカーズ館長、ミス タナー教頭、ミス フィリップス、ミス ホーガンが訪れ、すべての民法上の譲受手続きを行いました。(なお、香蘭女学校館長であるミス マーベル・リカーズは休養のため1912年7月2日に一時帰英し、後任にミス エレノア・グラディス・フィリップス(39歳)が就きました。また、それまで教頭であったミス ヘレン・ニューマンは1911年に一時帰英し、ミス ルーシー・キャサリン・タナー(37歳)が着任早々の1911年7月、教頭に就任しました。)
その6日後の12月7日には、交詢社(福澤諭吉が提唱し結成された日本最初の実業家社交クラブ)で第6回の父兄の香蘭女学校再築委員会が開かれ、新校地購買の報告とともに、建築設計施工の技師選定や校舎設計等についての協議が阿部泰藏委員長(前出)を中心に早速行われました。結果、建築監督技師として坪井正太郎、坪井義造の両氏が選ばれ、翌1912年3月下旬には早くも白金三光町の新校地で起工式が挙行されました。
新校地は、校舎が完成して学校移転するまでの間に、香蘭女学校のいろいろな会に使われ始めました。例えば、1911年12月14日には母姉懇話会が18名の参加者を得て開かれたり、翌1912年5月28日には校友会が卒業生だけの参加によって開催されたり、8月28日には新校舎第1回教員会議が開かれ落成式典についての協議をしたり、また9月11日には始業式を献堂前の講堂で行ったりしました。そして9月16日には献堂式が挙行され、来賓のジョン・バジル・シンプソン司祭(32歳)が香蘭女学校理事会議長のセシル・ヘンリー・ボーフラワー主教(49歳)に新校舎献堂の辞を述べ、主教はこれを神に捧げて感謝祈祷し、さらに香蘭女学校校主の今井壽道司祭(49歳)が詩編第127編を朗読しました。
新校舎の広さは1階203坪余、2階143坪余、門番所6.5坪。諸設備、理化学器械など必要な校具もすべて短期間の間に揃えることができました。これには多くの方面からの義捐金が充てられました。特に理化学器械については、1911年9月1日逝去した卒業生平田八重子さんの夫・平田篤次郎さんから記念品調整基金と称して送られた700円、同22日に逝去した卒業生二村枝子さんの夫・二村領次郎さんから送られた50円の寄付に、教職員等からの義捐金を加えた計1000円余を、その調達に充てることができました。
1912年9月19日、英国から国王御名代のアーサー・オブ・コンノート殿下(29歳)を迎えて、新校舎落成式が行われることになりました。コンノート殿下を迎えるにあたっては、学校周囲の家までも軒先を掃き清めて歓迎したとのことです。また当時の、凸凹していて歩きにくかった道路は、東京市によって工事がなされて砂利が敷かれたとのことです。殿下到着前に次々と訪れるお客様は生徒たちがご案内しました。新聞記者や雑誌記者は式場の左側、式場の前側は貴賓席で、生徒たちは一人一人名刺を受け取っては「どうぞ」と言いながら案内をしました。10時半過ぎ、コンノート殿下は自動車で近くまで来られましたが、道が狭かったため途中から人力車に乗って新校舎までいらっしゃいました。生徒一同は学校の玄関で出迎え、3年生以上はそのまま講堂に入り、それ以下は廊下に立って全員で英国国歌を歌って歓迎しました。その後殿下は、サー・クロート・マクドナルド英国大使夫妻、稲葉式部官ほか随行員の方々とともに暫し作法室で休憩された後、講堂の一段高い所に上がり、まずボーフラワー主教の日本語によるお祈り、続けて父兄の香蘭女学校再築委員会の阿部泰藏委員長の校舎再建に向けての寄付についての報告と感謝の演説、ボーフラワー主教による謝辞、1年生岡村ふく子さんによるコンノート殿下への記念品贈呈(記念品は、富田俊先生作歌『契りてし国の大園の撫子』を著名な書家である中村梅太郎(春堂)が揮毫、著名な日本画家の荒木寛友が撫子を描き刺繍を施した美しい敷物)、コンノート殿下の式辞、それに対する長橋政太郎校長による奉答の辞、そして引き続きコンノート殿下手ずから卒業証書を卒業生総代3名(高等科・本科・英語科の各卒業生総代)にお渡しになりました。(殿下は本当は卒業生全員に手渡ししたかったと話されていたとのことです。)殿下は記念品を受け取った際、すぐにその場で開いてご覧になり、殊の外お喜びのご様子だったと周囲の人々は見受けたとのことでした。また式典のあと、講堂を出て随行員の方々と親しげにお話しなさりながら生徒たちが最敬礼をしている前を通られた時、「お頭をお上げなさい。お顔が見えません。」と有難い言葉をかけられたと、当時生徒は報告しています。そのあと殿下は習字や裁縫などの陳列品を残りなくご覧になり、そして自ら鍬を手にして校庭に小松をお手植えになりました。
こうして香蘭女学校は新校地と新校舎を得て、白金三光町での新たなスタートを切りました。新しい講堂はこの日を記念してコンノートホールと命名されました。また、この落成式の日9月19日は、以後香蘭女学校の創立記念日とされることになりました。

(写真は左上より、白金三光町新校舎、白金三光町校舎の校門、コンノート殿下お出迎え、コンノート殿下到着、コンノート殿下植樹、コンノートホール)

入学試験合格発表の遅れをお詫び申し上げます2018年02月02日掲載

本日、午前9時からの入学試験合格発表が準備の手違いにより遅れてしまい、皆様に大変ご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます。
合格発表は本日午後4時まで掲載いたします。
合格者及び補欠者には手続き書類をお渡ししますので、受験票をご持参のうえ本日午後4時までに本校事務所にお越しください。

2018年度 中等科入学試験合格発表2018年02月02日掲載

2018年度の中等科入学試験合格発表は、終了いたしました。

ページトップへ