トピックス(2018年3月掲載分)

卒業式を目前に控えた校内に咲いた春の花2018年03月31日掲載

2017年度もあとわずか。高等科3年生の卒業を間近にした3月半ば、香蘭女学校の校内にはまた新たな花が咲き始めました。せっかくの花の季節ですから、このホームページでは少しずつコマメにご紹介してゆきましょう。
聖ヒルダ記念館にある校宅前にはモモの大きな樹がありますが、今ちょうど満開。たわわに咲いた桃色の花が見事です。
さて築山に足を踏み入れてみましょう。アプローチから横道で入れるところ、ちょうどボケの花が咲き始めた場所のほんの少し奥の地面に、ルリムスカリの小さい華麗な花が一本だけ咲きました。まさに芸術的と言ってもよい姿です。
築山の奥の方まで進んでゆき、体育館棟の西側近くまで行くと、ヒヤシンスの花が今年も咲き始めています。
春の花は色が鮮やかです。

web登録システム切り替えに伴う登録終了のお知らせ2018年03月30日掲載

本校では、説明会及び出願登録システムの変更を予定しております。新システムへの移行に伴い、この3月31日いっぱいで一時登録システムを停止させていただくこととなります。
移行作業完了後に、画面は切り替わります。2018年度登録開始は5月初めを予定しております。詳細は改めてホームページでお知らせいたします。
ご迷惑をおかけしますが、ご理解とご協力をお願いいたします。

全校登校日礼拝で青野高等科教頭から学期末の心得2018年03月29日掲載

三学期の期末テストを終え、ほっとひと息ついた生徒たちが次に登校したのは、全校登校日でした。この日は期末テストがすべて返却される日です。
この全校登校日礼拝では毎学期、学期末やそれに続く長期休暇の過ごし方について先生からのお話があります。今回は青野高等科教頭からのお話がありました。
青野先生からのお話の最初は、学期末に期末テストが返される時というのは、この学期を反省するということなのでしょう、という問いかけから始まりました。そして、反省するというのは、振り返って噛み締めることと言い換えたいと話されました。楽しかったこと、悲しかったこと、自分のこと、周りの人のこと、直接は知らないけれどつながりのある人のことなどを、振り返って噛み締めることなのです。
また、振り返ることは新たなスタートを切ることでもあります。そしてこの日は、何故?と考えてみる日です。何故?というのは、何が一番やりたかったんだろう?ということなのです。やりたいと思ったことに本気で踏み込んだだろうか。集中・熱中・夢中・没頭できたこと。自分のこと、出会った人のこと。悩みの時期にある発展途上の現在進行形を生きている私たちは、少しずつ、いやむしろ、少しずつが良いから、自分と人を許したり守ったりして、それぞれの出会いを深くしていってほしい、丁寧にゆっくりじっくりと生きてほしい。
青野教頭先生のお話は、中高生という青春のこの激動の時期を、楽しみながら、また苦しみながら暮らしている生徒たちにとって、ホッとさせられるとともに、元気が出るメッセージでした。
もうすぐ、2017年度も終わりを迎えます。

全校登校日礼拝でパレスチナ支援活動の報告と呼びかけ2018年03月28日掲載

3月12日、期末テスト終了後から4日ぶりに全校生徒が礼拝堂に揃いました。この日は全校登校日礼拝でした。
この日の礼拝は、東日本大震災から7年目を前日に迎えて、被災地と被災された方々を覚えて祈りを捧げました。
またその礼拝の中で、昨年から有志生徒によって続けられているパレスチナの子供と女性を支援する活動の、2017年度の活動の総括報告がありました。
全校生徒の前に立った高等科1年と2年の生徒は、まず年末のクリスマス週間から続けてきたパレスチナの刺繍製品等の販売活動の収益報告があり、この収益がどのように使われるかの説明がありました。
次に、パレスチナとはどこなのか、パレスチナ難民とは何か、シリアってどこか、イスラム教徒にどのようなイメージを持っているか、などの質問が投げかけられ、映像を使って世界の中でのパレスチナの位置が示されたり、イスラエル建国の歴史に関わる諸問題の解説がなされたり、ガザ地区の様子などが丁寧に紹介されました。
そして、これからも私たちがパレスチナの人々に関心を持ち、関係を持ち続けることの重要性が訴えられました。

箏曲部が老人ホーム「ベタニヤ・ホーム」で演奏会2018年03月27日掲載

毎年3月に行っている横浜市戸塚区にある日本聖公会の老人ホーム「ベタニヤ・ホーム」での箏曲部演奏会。今年は3月10日に行われました。
横浜市戸塚区汲沢町に「社会福祉法人 聖ヒルダ会」があります。元々、香蘭女学校の創立当初の女性宣教師であるミス・ソントンが「聖ヒルダ養老院」(日本最初の高齢者施設)をつくったのが1895年。その施設が、これとは別に1952年千葉県八生に設立され後に大磯に移転した「ベタニヤ・ホーム」と1980年に合体して、この「社会福祉法人 聖ヒルダ会」が設立されました。軽費老人ホーム「ベタニヤ・ホーム」がこの法人の活動の中心でしたが、次第に活動が地域から高く評価され、その地域社会の要請に応えるべく「訪問介護 ケアセンター ベタニヤ」「高齢者短期宿泊施設 聖マリア館」「横浜市平戸地域ケアプラザ」の各事業・施設を展開、そしてこの2009年秋からは「戸塚区精神障がい者生活支援センター」を開所しました。
香蘭女学校と聖ヒルダ会ベタニヤ・ホームとの関係は古く、以前より毎年夏にボランティアで掃除などのお手伝いに出かけたりしていました。また、現在の聖ヒルダ会の前理事長が香蘭女学校の元チャプレン今井烝治司祭であったことにも両者の縁の深さを感じます。
さて、今年もベタニヤ・ホームに着いた箏曲部の部員たちは、毎年この演奏会を楽しみにしていらっしゃるホームにお住まいの方々や職員の方々と1年ぶりの再会を喜び、まずは一緒に昼食をとりながら、いろいろとお話をしました。そのあといよいよホールで演奏会を始めましたが、客席として用意した椅子には今年もたくさんのホームの方々がいらっしゃって、大盛況の会になりました。演奏のあとには、おやつを一緒に食べながら、ご感想を伺ったりする機会も持たれました。
箏曲部が長く続けてきているこのベタニヤ・ホームでの演奏会。これからも親しい関係が続いて、ホームの方々を少しでもお慰めできたら、と思っています。

三学期末テストが終わって試験休みの校内に咲く花2018年03月26日掲載

3月8日に2017年度最後の定期テストである三学期の期末テストがすべて終了しました。4日間のテストを頑張りぬいた生徒たちは、ホッと一息つける試験休みに入りました。暖かい日と寒い日が順番にやってきて天気も晴から雨まで乱れ気味のこの時期、香蘭女学校の校内の草や樹には、また新たな花が咲き始めました。
校門を入ってアプローチを進んで行くと、右側に築山に入れる小さな坂道がありますが、その脇にボケの花が一輪開きました。これから、一輪また一輪と風情ある咲き方をしてゆくはずです。
さらに進んで行き、アプローチが右にカーブをとるあたりの右側には、ユキヤナギの白い花が一輪、目を凝らして見ないと発見できないぐらいの大きさですが、確かに咲き始めました。これから4月初めにかけて、各枝にビッシリと白い花がつくはずです。
アプローチのその反対側、茶室の芝蘭庵の前に背の低いヒュウガミズキの樹がありますが、こちらも一輪、黄色い花が開きました。
そしてこのヒュウガミズキの親類の樹であるトサミズキのもっと背の高い樹が、築山の奥の方、体育館棟の西北脇に立っています。こちらの黄色い花はヒュウガミズキよりも少し早く、開花が始まり、次々と各枝にかたまりとなって花がついています。
そのトサミズキの少し奥に、ピンク色のはっきりした姿の花が咲いている樹があります。ハルサザンカです。
そして管理棟南には、長らく蕾の状態を守り続けていたシンビジウムが、遂に開花しました。

中等科2年SE学習「デッサン入門」講座の展示2018年03月25日掲載

既報の通り、3月2日に中等科2年のSE学習の発表会が礼拝堂で行われましたが、講座の成果の発表が舞台では披露しにくい講座の一つである「デッサン入門」は、展示発表を行いました。
礼拝堂での発表会に合わせて同日、礼拝堂のエントランスホールに、「デッサン入門」講座を受講している生徒の作品が展示されました。
デッサンの対象や構図、筆記具など、それぞれ自分だけの工夫を凝らして、他の人には真似できないユニークな作品を、各自が楽しんで作り上げている様子が十分にうかがえる、面白い、しかも技術的にも高度な展示発表になっていました。
発表会の当日は多くの中等科2年生が、礼拝堂のエントランスホールに足を止めて、友だちと一緒に感想などを言い合いながら、並んでいる展示作品に見入っていました。
礼拝堂の発表会だけでなく展示という形も含め、SE学習は友人同士の学習活動を知り合うことも大切な要素の一つとなっています。

中等科「SE学習」発表会が行われました2018年03月20日掲載

香蘭女学校オリジナルの選択授業であるSE学習。その中等科2年生の一年間の学習成果を披露する発表会が3月2日、前日に行われた中等科3年生の発表会に引き続き同じ礼拝堂で行われました。
SE学習担当の学年の先生の司会によって始められたこの会は、開会のお祈りを捧げたあと、それぞれの講座の発表に入りました。この日発表を行ったのは、全13講座のうち6講座。「音楽」「箏曲」「囲碁~考える力を養う“囲碁ガール”」「華道」「茶道」「剣道」の各講座でした。
「音楽」講座の発表は、まずピアノの3人連弾から始められました。トランペット、トロンボーン、ホルン、クラリネット、キーボードの合奏が続き、最後に講座受講者全員でリコーダーの演奏を行いました。
「筝曲」講座の発表は、グループに分かれて、親しみやすいレパートリーを演奏しました。
「囲碁~考える力を養う“囲碁ガール”」講座の発表は、映像を駆使して、囲碁とはどのように対局を進めてゆくものなのか、その魅力が十分に伝わるように説明をしました。
「華道」講座の発表は、2つのグループに分かれて、池坊の基本を守りながら、自分たちのオリジナルデザインの生け方で、みんなの前で生けてみせました。
「茶道」講座の発表は、全員が浴衣で登場し、映像で基本的なことを紹介するとともに、舞台上では茶会の流れをコンパクトに見せてくれました。
最後に「剣道」講座の発表は、防具をつけて練習風景をキビキビと再現し、この発表をもって、今年度の中等科2年SE学習発表会を終えました。
普段見ることのできない自分が受講していない講座の様子をこの発表会で垣間見た生徒たちは、目を輝かせて友人の発表に見入っていました。そして、惜しみない拍手を送っていました。と同時に、発表する生徒たちも実に真剣に、生き生きとその成果を見せてくれました。
自ら学ぶことを追求する香蘭女学校のSE学習。その目的が少しずつ実を結んでいるようです。

3月に入って2018年度末の校内に咲き始めた花2018年03月19日掲載

3月に入って今年度の授業も間もなく終わるという頃、香蘭女学校の校内には新たな春の花が咲き始めました。
今アプローチで満開な花はアセビ。芝蘭庵の周辺のあちらこちらで咲き誇っています。
築山に足を踏み入れてアプローチに近い側をずっと進んでゆくと、アプローチへの斜面に近い場所に早咲きのサクラが咲いています。そしてその手前には何本かのジンチョウゲの樹で花が次々と咲いています。
築山の井戸の近くでは、ヒイラギナンテンの樹に黄色い花がたくさんついています。
もうすぐ蕾が綻ばんとしている樹もあります。その一つが、体育館棟の西北にあるトサミズキです。可愛らしい黄色い花が見られる日も間近です。
早咲きのものをもう一つ。こちらは樹ではなく草ですが、香蘭女学校が誇るカントウタンポポがただ一輪、狂い咲きのように早くも咲き始めています。
その他にもあちらこちらの樹や草で、蕾が膨らんできています。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(28)2018年03月18日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第24回です。

《香蘭女学校の歴史 24 新校地購入後4年でようやく新校舎を建設して移転》

1937年に平塚(現・旗の台)の旧伊藤幸次郎邸「しひゃくそう(四+百百+荘)」4320坪を新校地として購入して間もない7月に日中戦争が勃発し、新校舎の建築資金の募金中止と、建築計画延期を余儀なくされることとなりました。
新校舎の建築延期の間、少しずつ機会を見つけては新校地を利用する催しが行われました。例えば、1938年9月8日には全校生が新校地の庭の草取り奉仕を、同年10月19日には新校地において創立50周年記念式典を挙行、1939年9月9日には再び全校生が新校地の庭の草取り奉仕を、そして同年11月3日午前9時からは明治節奉拝式を挙行した後、引き続き新校地で体操会を開催したりもしました。
しかし、1940年3月27日の理事会では、現状ではもはや建築のさらなる延期はできないとの意見で一致し、4月6日の理事会で時勢の厳しい中ではあっても校舎新築は断行するとの決議を得ました。既に前年1939年7月11日には資金調整局から校舎建築の許可が下りており、また1940年1月12日には白金三光町の校地や寄宿舎などの建物等不動産一切をSPG在日宣教団から財団法人香蘭女学校に譲渡され名義変更登記を済ませて、白金校地売却への準備も進めていました。そこですぐに4月10日、既に前年12月より設計を開始していた嘱託建築技師の大澤澤次氏、請負業者である竹中工務店との間に契約を締結しました。5月20日に警視総監指令の建築許可を経て、6月1日には理事長である松井米太郎主教の司式、今井直道司祭の補式によって新校舎起工式を挙行、7月13日には東京府知事指令の建築許可が下り、8月13日の臨時資金調整法による主務大臣許可が出ました。10月12日には上棟式を挙げ、1941年3月には落成の運びとなりました。移転のために授業は3月4日早くも終了し、翌5日には職員室や事務室の用品を新校舎へ運搬、14日から22日の間に新校舎への移転はすべて完了しました。ただし、付属の教師館だけは工事着手期の関係で少し遅れて1941年9月に落成をしました。
日中戦争の勃発以降、資金調達法による制限、統制令による工事制限、さらに軍需物資優先の時勢から建築資材の不足など、すべてに於いて不十分な準備のまま、何とか新校舎は竣工に漕ぎ着けました。建設資金募集委員会委員長の志立鐵次郎氏が下記の落成式で報告をしていますが、借入金5万7千余円という多額の借金を残すことになりました。
新築校舎は木造平屋造で広さ633.158坪。10室ある普通教室が全部で335.75坪。特別教室(理科室、家事実習室、歴地室、講堂兼体育館、準備室)が全部で243.375坪。そして渡り廊下と2ヶ所のお手洗いが全部で54.033坪という広さです。設計を担当した大澤澤次技師の言によれば、「様式を近代式に則り、構造に於いては耐震耐風を主眼とし、仕上げに於いては虚飾を避け、実質本位とし、特に採光換気並びに衛生の設備に万全を期した。建物基礎は強固な粘土層に達するまで地盤を掘削し、コンクリート礎盤を築造した。」とあります。また、伊藤幸次郎邸の洋館(旧本館)をそのまま改造して利用した建物(校長室、職員室、事務室、小使い室、会議室、作法教室、その他4室)は145坪ありました。落成式はこの完成を待って行われることとなりました。
1941年10月27日(月)午後2時から、紺碧の空に一点の雲もなく、風は多少冷たいながら秋の日差しが背中に暖かい、恵まれた好天の中、新校舎の落成式が行われました。校門に「香蘭女学校新築落成式場」の立て看板が出され、受付では当日の記念品である文鎮・絵葉書・プログラムの3点セットが係員によって渡されました。新講堂で行われた落成式の式次第は次の通りです。

奏楽                              高橋  美子
来賓入場
宮城遙拝
黙祷
国歌  二唱
挨拶        日本聖公会東京教区主教・香蘭女学校理事長  松井 米太郎
聖歌 245番
感謝祈祷                            松井 米太郎
式辞                     香蘭女学校校長  井上  仁吉
告辞並びに祝辞                  東京府知事  川西  実三
同                      東京市荏原区長  島本  正一
同                   基督教教育同盟会代表  安井  てつ
同            香蘭女学校校友会会長・同後援会会長  長橋 政太郎
同                      同保護者会会長  工藤 重治郎
同                       同在校生総代  瀬島  英子
報告                   建築資金募集委員長  志立 鐵次郎
同                     建築設計主任技師  大澤  澤次
同                 校舎建築及び移転担当理事  吉植  庄三
建築関係者へ謝辞                   理事長  松井 米太郎
校歌
祝祷                     理事  サムエル・ヘーズレット
来賓退場
奏楽                              高橋  美子

なお、この新校地が決定してからは、香蘭女学校の新校地への移転とともに、白金三光町の香蘭と同じ敷地内にあったエピファニー修道院東京支部も同敷地内に移転する予定でした。この女子修道院は常に香蘭女学校とともにあった英国の修道院で、ここに通った日本人女性が後に修女となり、その修女のために日本人のための修道院であるナザレ修女会が同敷地内に生まれました。また、エピファニー修道院東京支部には香蘭の清蕙幼女学校が形を変えた聖ヒルダ瑶光ホームという孤児院も所属していました。ところが時勢は変わり、時局に応じて物価は高騰し、この3つの組織が移転をして新たな建物を建てることは、高い建築費から考えて到底無理であり、またイギリスから来た修道院が新たに礼拝堂を建築することを認可されるような時代でもなく、三光教会以外の施設は、一切移転しないことを決心しました。どちらも断腸の思いで白金三光町に残る決断をせざるを得なかったのです。
時は1941年。太平洋戦争は目の前に迫っていました。

(写真は左上より、新校舎普通教室棟、新校地で行われた創立50周年記念式典祝賀会、新校舎講堂兼体育館、新校舎落成式、新校舎校庭、新校舎の職員室棟前での井上仁吉校長)

「香蘭女学校創立130周年記念英国旅行」のご案内2018年03月17日掲載

2018年に香蘭女学校は創立130周年を迎えます。
この香蘭女学校創立130周年を記念して実施されます「創立130周年記念英国旅行」をご案内します。
この旅行は、企画:香蘭女学校維持後援会、主催:日本旅行によって行われます。これまで130年間の香蘭女学校を憶え、今後の香蘭女学校を考えてゆくための機会として企画され、昨年その準備の視察も行ってまいりました。
鈴木弘校長、棟近稔香蘭女学校理事(前立教英国学院校長)もこの旅行に参加予定です。なお、生徒が参加を希望する場合には、保護者の同伴が必要となりますのでご留意ください。
問い合わせは、香蘭女学校維持後援会の旅行担当、あるいは、主催の日本旅行へお願い致します。
なお、昨年視察した時に撮影した写真を使った企画紹介動画も是非ご覧下さい。

《創立130周年記念英国旅行紹介動画》

創立130周年記念英国旅行チラシ表

創立130周年記念英国旅行チラシ裏

高等科の生徒が受検するTOEIC - 今回は高32018年03月16日掲載

香蘭女学校では今から130年前の学校創立以来、英語教育を重視しています。英国から来日した宣教師の方々によって学校が建てられたという経緯から考えても、当然のことだったでしょう。明治時代の香蘭女学校のカリキュラムを見ても、英語の時間数が図抜けて多かったことがわかります。そして、明治時代のある時期には、週の半分は日本語無しで授業が行われていたこともありました。
時代は移り、グローバル社会となったこの現代に於いては、この時代に則した、あるいは時代を先取りした英語教育を志しています。デジタル教科書は勿論のこと、多くの冊数の洋書を用意しiPadを駆使してシャドーイングを多用する多読多聴授業など、日々改革を試み、英語の四技能の力をつけるチャンスにしてほしいと願っています。
その中で、学力の伸張を計る外部テストの採用も欠かせなくなっています。何十年も前から英語検定は勿論受検していますが、2006年から高等科の生徒はTOEIC受検をしています。また現在は、中等科1年生からGTEC for STUDENTS を校内で受検しています。自分の学力を自分で客観視しながら、得意なところ不得意なところをしっかり確認して次の学習につなげていく機会としています。
この2月23日には例年通り、高等科3年生が香蘭生活最後のTOEIC受検をしました。TOEICの得点は、大学進学を大きく左右するものにもなってきています。今後も自分の得点を伸ばす努力を重ねていってもらいたいと考えています。
(写真は、TOEICのテスト開始直前の様子)

恒例の中等科1・2年合同合唱会が行われました2018年03月15日掲載

2月17日(土)午後、礼拝堂にて毎年三学期恒例の中等科1・2年合同合唱会が行われました。当日は多くのご家族がいらっしゃって、礼拝堂は2階席まで超満員の大盛況でした。
この合唱会では両学年の生徒の音楽係が、長期にわたるクラス練習を先頭に立って引っ張り、当日に向けてはプログラムの制作、会の運営全般を担当します。司会やはじめの言葉・終わりの言葉など、ご家族が見守る中、緊張の面持ちでしっかりとつとめていました。
中等科2年の音楽係の生徒による司会によって始まった合唱会は、初めにまず高橋チャプレンによる開会のお祈りを捧げ、また聖歌308番を全員で奉唱しました。続いて、中等科1年の音楽係の生徒によってはじめの言葉が告げられました。
そしていよいよクラス発表。中等科1年生、2年生ともに、音楽の先生がそのクラスに相応しいものをと選んでくださった課題曲と、クラスで選んだ自由曲の2曲。クラスのメンバーの指揮とピアノ伴奏によって歌いました。中等科1年生は初めての合唱会のために緊張しながらも初々しい声と姿を爽やかに披露してくれ、中等科2年生は1年生の曲よりも一段と難しい曲に挑戦して声も高らかに素敵なハーモニーを聞かせてくれました。
また、全てのクラスが歌い終わったあとは、それぞれの学年がクリスマス礼拝のときに歌ったクリスマスキャロル(中等科1年は「Away in a Manger」、中等科2年は「O little town of Bethlehem」)を学年全員で合唱しました。次に、二学年全員での合唱「主を頼みて」(J. L. F. Mendelssohn B.)。最後には会場のご家族も一緒に全員で聖歌434番を奉唱しました。
各クラスの個性が滲み出るクラス合唱と、声量の豊かさと厚みたっぷりの全員合唱は、これまでの練習成果がよくあらわれており、会場のご家族を感動させるに十分なもので、歌い終わった生徒たちに惜しみない拍手を送るご家族の笑顔が印象的でした。
鈴木校長先生からねぎらいのお言葉をいただき、そのあと中等科2年の音楽係の生徒による終わりの言葉、そして最後に中等科1年の音楽係の生徒による閉会のお祈りをもって、今年度の合唱会は無事終了しました。

中等科1・2年生でも授業公開が行われました2018年03月14日掲載

毎年恒例の中等科授業公開(保護者対象。授業参観)が今年度も行われていますが、2月14日の中等科3年生に引き続き、2月17日(土)には中等科1・2年生でも授業公開が行われました。
中等科3年生と同様、授業は先生の講義だけでなく、生徒の発表によるものやグループ学習、ハーフクラスでの英語の授業などもあり、またホームルームの教室での授業だけでなく、物理室や生物室での理科の授業や、被服室、小教室などでの授業も公開されました。
中等科1・2年生の授業公開は、土曜日に、しかも午後に中等科1・2年合同合唱会が置かれている日に設定されたので、朝からたくさんの保護者の方々にお見えになりました。お母様、お父様だけでなく、おじい様やおばあ様、さらには弟や妹まで授業を参観していました。また、中等科1年生は香蘭女学校入学以来初めての授業公開であったため、たくさんのご家族の参観があり、特に英語の授業への関心は強く、ハーフの授業で生徒が一人ひとり教室の洋書ワゴンから机に並べたたくさんの本から自分が読みたい本を探し、自分の机に持ち帰って読み始めている姿の一部始終を、しっかりご覧になっていました。
保護者の方々は、自分の子どもの授業中の姿を見るだけでなく、学校の授業内容や方法にも強い関心を抱いている様子で、授業そのものも熱心にご覧になっていました。
その日は合唱会を終えて帰宅した生徒と保護者の方との間で、授業に関する話題が弾んだことでしょう。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(27)2018年03月13日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第23回です。

《香蘭女学校の歴史 23 東北帝大総長から香蘭女学校校長へ~井上仁吉先生》

1933年7月20日に第3代校長の富田俊先生は、体調を崩されて退任されました。
それ以前から内々に辞意の申し出があった富田先生の後任校長については、理事長の松井米太郎主教を筆頭に理事会がその選考に当たりましたが、その選考には大変な困難があったようです。現在でも変わらず同じ選考条件ですが、校長になる方は第一にクリスチャンであり、それに加え日本聖公会の会員でなくてはなりません。当時この条件はなかなか容易なハードルではなく、理事の方々は大変な苦労をされたようです。
そこに、まさに天祐とでも言うべき、全ての条件を具備されて余りある方があらわれ、その方が校長職を受諾してくださいました。そして富田校長から校長事務一切を引き継ぎ、富田校長退職の同日、第4代校長に就任されました。それが井上仁吉先生です。
新学期開始早々の9月19日には、理事の志立鐵次郎氏(《香蘭女学校の歴史 19 香蘭女学校後援会と香蘭女学校保護者会の設立》参照)の司式により、香蘭女学校創立45周年記念式と同時に井上新校長歓迎式が挙行されました。
井上仁吉新校長は、1868年11月4日、蘭方医井上勤所氏の次男として京都に生まれました。1873年、京都最古の小学校に入学し、その在学中、明治天皇行幸の折、御前にて朗読をし、陛下より絹一匹とお墨付を賜わりました。京都府第一中学校、東京第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部応用化学科に入学、1896年7月に卒業した後、横浜ガスに勤めました。1899年7月には東京帝国大学工科大学助教授に就任、1904年自費にてドイツ、ドレスデンの大学に留学しましたが、日露戦争のために1905年に帰国し、8月東京帝国大学工学部教授に就任、その間再び訪独しました。1907年8月に工学博士の学位を受領。1918年7月には東北帝国大学理科大学教授となり、1919年5月から1921年10月までは同工学部の学部長、1928年6月には東北帝国大学の第5代総長に就任します。この間に1ヵ月に2回程、天皇に御進講のため上京しました。また1916年3月6日に公布された「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律」によって、創立委員長に渋沢栄一を迎えて1917年3月20日に設立された「財団法人理化学研究所」の7名の常務委員の一人として化学関係のことが井上仁吉先生に委嘱されました。さらに、エスペラント語の研究にも造詣が深く、1930年11月8日、一度衰微した仙台エスペラント会が復活した際に、井上先生が会長に就任しました。1931年6月、東北帝国大学を依頼免官するとともに同総長を辞任、後進に道を譲られました。現在、東北大学産学連携先端材料研究開発センターにあるオープンカフェ風デッキの中央には、「東北帝国大学第5代総長井上仁吉先生の御退官記念樹の桜」があり、毎年春に満開になります。同年7月には東北帝国大学名誉教授の称号を授けられます。そして縁あって、1933年7月に香蘭女学校校長に就任します。この年には、工業化学会(現在の公益社団法人日本化学会)会長もつとめています。さらにこの後、日本エスペラント学会の理事や、1936年3月設立の日本科学エスペラント協会(JESA)理事にも就きます。井上仁吉先生は応用化学研究分野の大家であり、書は「青崖」の号を持たれました。また心霊学に興味を持たれて、その研究もされました。
井上仁吉先生が初めて香蘭女学校を訪れた時のことを、「初詣で香蘭の匂い」という文章に残されています。1933年7月某日、省線電車に乗って恵比寿で降り、田町行きのバスに乗車して豊沢の停留所で下車します。このあたりに来たこと自体が初めての井上先生は、道に迷い、途中で行き交う人に道を尋ねながら香蘭に向かい、ようやく校門に辿り着きます。「香蘭女学校」と墨書された門標を暫し凝視し「筆力雄渾墨痕今なお淋漓たるものあり」と感服したあと、入ってすぐ右側に石垣の中の常緑樹に囲まれて古色蒼然とした教会を発見します。「これは後に有名な三光教会と知って驚いた」と井上先生は記しています。このあと正面の坂道をひたすら登り続けます。あまりの急勾配の連続に、登り終わって校舎を発見した時、「思わず破顔一笑ああこれかと独語した。初めて香蘭を訪れる人は誰でも私と経験を同じくして思うだろう。有名である香蘭を一目見るだけでも難行苦行一通りではないと。」という感想を漏らします。何と軽妙な楽しい先生であることかと思わせる逸話です。校舎に足を踏み入れてまず、廊下の掃除が行き届いていることに感心します。また、施設全体は規模は小さく完全とは言い難いものがありながら、「落ち着きと奥ゆかしさを深く感じた」と述べています。教員室のあまりの狭さに一旦は悲哀を催しますが、このぎゅうぎゅう詰めの教員室に家庭団欒の情味があることを感得しないではいられないと、後に知ります。そしてこの文章の最後に、「本校はこのように人工的物質的には貧弱であっても、自然的精神的には豊かに恵まれている。殊に精神的方面としては46年前の昔より終始一貫、キリスト教主義により徳育を施すことを第一義とするところ、これが本校の本領であり、香蘭の匂いである。このような学校に学ぶものは、常に身心を爽快にして、愉悦の情を豊かにすることをもって、不知不識の中に徳性を善養することができ、学校を卒業したら永く社会に香蘭の匂いを宣昭するに至るだろう。」と書き記しています。井上仁吉先生が香蘭女学校を一目見て、創立以来守り育て続けている香蘭の心を見事に感じとっていることが、この文章からよくわかります。
上述の1933年9月19日に挙行された香蘭女学校創立45周年記念式並びに井上新校長歓迎式で、井上新校長の行った挨拶についての感慨を、後に第11代校長となる志保澤トキ先生が創立70周年の1958年に当時を振り返って次のように述べています。「井上先生が昭和8年に就任された頃から、副校長ミス・タナーに教務上の御相談を受け、お手伝いもさせていただくようになりました。井上先生がおいで下さいましたのは、東北大学の総長を定年で辞された直後であったと記憶いたします。当時の教職員・在校生の中には、就任式に先生がなさった御挨拶を覚えて居られる方があることと思います。先生の最愛の御嬢様の発病から臨終までの父上としての限りない愛情と悲嘆、そして、如何にその御嬢様の美しい信仰により、科学者の先生がキリスト教徒になられたかという物語でありました。『制服姿の皆さんがこうして並んで居られるのを見る時、神様が私の最後の奉仕の場所として、この上もない楽しいところを与えて下さったことを感じ、心から感謝しないでは居られません。』と結ばれた飾り気のない中にも温情のあふれた御挨拶が、全校の心をとらえたのは当然のことであったと思います。」
井上校長就任から半年ほど香蘭で一緒に過ごした後、結婚して退職した伊村三枝先生(在職時の旧姓:浦野)が、その時の井上新校長の様子を翌年に記した次のような文章があります。「校長室との境の入口の所へ誰もが進んでゆく。中からは新校長井上先生のあのゆったりしたお姿にふさわしい丸味を帯びた「お早う……」のお声が職員室の方まで流れてくる。新しい校長先生! そうした特別の気分も一日一日と薄らいで何時の間にか何でも井上先生のお耳にお入れする程になってしまった。若い先生の間では特に「お父さま」というよび名で通ろうとさえしている位。ただ先生があの校長室に座ってさえいらして下されば、それだけで私共は大安心を与えられた様な気がしている。「先生の名も生徒の名もこれからポツポツ覚えましょう」等と仰っていらしたけれど生徒は大変としても先生の方は何時ともなく名前をご存知なのには恐縮してしまった程。どんな小さな事でもいちいちよくうなずいて聞いて下さる。お嬢様をお亡くしあそばしてから信仰に導かれたと仰るだけに何処かに先生の信仰生活には人間の心を捉える率直な強さが滲み出て来て、何処までも父としてのひろいお心持からすべてをご指導下さる事がこれから後も香蘭女学校の為に幸多い事と一同皆感謝を捧げている。」
井上仁吉校長の時代は、太平洋戦争に向かう時代でもあります。井上先生の校長就任の頃には、ご本人も迎えた教職員や生徒たちも、これからの苦難を知る由もありません。

(写真は左より、井上仁吉校長、1939年卒業式にてミス ウーレー・井上校長・ミス タナー、1940年卒業式にてミス ヘイルストン・井上校長、ミス タナー、志保澤トキ先生)

エントランスホールで沖縄平和学習展示と写真部展示2018年03月12日掲載

12月に実施された「沖縄平和学習」の写真展示が、エントランスホールで行われています。生徒が現地で写した写真にキャプションをつけて、自分たちの率直な感想・意見をその中で紹介しています。その一部を紹介しましょう。
「これは辺野古の海の写真です。とても美しい海ですが、基地建設によってジュゴンなどの生物が影響を受けていて、問題となっています。」
「先日、辺野古基地がある名護市長選挙が行われ、渡具知氏が当選しました。これは事実上基地移設を容認するような結果となりました。辺野古基地建設現場で、無言の抵抗を続けてきた座りこみをしていた方々はいまどのような思いをしているのでしょうか。」
「沖縄の上空では、アメリカの戦闘機やヘリコプターが頻繁にみられ、大きな音が周辺に響き渡っています。しかし沖縄の人々は気にも止めません。沖縄では軍用機が飛んでいることが日常の一部と化しているのです。それなのに沖縄(日本)は平和といえるのでしょうか?」
「普天間基地は住宅街に囲まれており、住民は危険と隣り合わせの生活を送っています。」
「これは、嘉数高台(かかずたかだい)から撮られた写真です。街を360°一望できる場所で、もちろん、普天間の米軍基地もみえます。基地に関するプレートの後ろには実際の基地が写っています。この場所から、「Japan」の名を背負った何機もの飛行機がアジアの戦地に向かって飛び立って行っているのです。」
「これは『平和の礎』の写真です。「礎」は「いしずえ」ではなく、沖縄の方言で「いしじ」と読みます。ここには軍人、民間人や国籍の区別なく、沖縄戦で亡くなった全ての方々の名前が刻まれています。太平洋・沖縄戦終結50周年を記念して1995年6月23日に建設されました。」
「学童疎開に向かう児童たちを乗せた対馬丸はアメリカのボーフィン号という軍艦から放たれた魚雷により撃沈されました。乗っていた8割の人は犠牲になりましたが、生き残った人々はこのいかだに乗って何日も漂流しました。その後生き残った人々には箝口令(事件のことを話してはいけないという命令)がしかれ、第二の苦しみを味わうのです。」
「これは米須海岸の写真です。沖縄戦時は、この海に沢山の米軍の艦隊が押し寄せました。また、最後、追い詰められた沖縄県民の多くが、ここで集団自決をして亡くなりました。」
「これはガマの入り口です。この中では、多くの人が恐怖と戦いながら長い間過ごしていました。想像してみてください。光のない世界で轟音といつ死ぬかわからない、死と隣り合わせで日々過ごさなければならないということを。」
また、この写真展示より前から、隣で写真部の展示も行われています。都内に大雪が降った時の写真もあって、エントランスホールを通る生徒の目を引き付けています。

2月中旬になって春の花が次々と蕾を膨らませています2018年03月11日掲載

2月中旬に入り、気温は相変わらず例年以上に低いですが、香蘭女学校の校内の自然は春の前兆をあちらこちらで見せ始めています。
既にお知らせしましたように、茶室芝蘭庵の前にあるウメの樹は開花して、今や満開の装いです。一方、聖ヒルダ記念館の校友会館前にある紅梅の樹には、赤い可憐な花が次々と咲いています。
開花と言えば、芝蘭庵前のウメの隣にあるサンシュユの樹でも、この2月中旬に蕾が開き始めて、枝々に黄色が目立ってきました。
聖ヒルダ記念館の校宅前にはモモの樹がありますが、こちらも蕾が膨らんで、開花直前の時を迎えています。
開花直前と言えば、校門からアプローチを歩いてきて右側の築山に入る道脇にあるボケの樹でも、蕾が少しずつ大きくなってきています。同じ築山をもっと中に入っていくと、コブシの大樹がありますが、見上げてずっと高いところにある枝を見てみると、蕾があちらこちらに見られます。白い美しい花が咲くのも時間の問題のようです。
管理棟の南側には、校務職員の方々が丹精して育てているシンビジウムが、やはり開花を待ち焦がれている姿を見せています。
香蘭女学校の春はもう目の前です。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(26)2018年03月10日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第22回です。

《香蘭女学校の歴史 22 白金三光町校地から現校地への移転までの経緯》

1912年に麻布永坂町から芝白金三光町に移転して以来、香蘭女学校は次第にその生徒数を増やし、1931年の校舎増築の頃には約3倍に、その翌年には1936年までに150人の生徒増員をする計画が発表されました。
このままでは、白金の狭い校地での学校運営は難しいとの判断から、1933年11月には香蘭女学校改善調査委員会が設置され、その後数回にわたり校舎問題の討議を重ね、1934年2月6日の第6回委員会で校舎改築が急務であるとの決議を得ました。そして同24日の理事会で校舎拡張案を採用して白金三光町の校地に鉄筋コンクリート3階建て校舎の建築が決議されました。翌1935年には鉄筋コンクリート造り3階建ての白亜の校舎の完成予定図が発表されました。また、同3月29日には財団法人香蘭女学校建築資金募集委員会が組織され、本格的に新校舎建築への動きが活発化してきました。
ところが、翌1936年11月6日、一生徒のご母堂が知人のご婦人を伴い来校し、学校移転の考えの有無を問われ、当時の井上仁吉校長は「理事会で移転説も出たが、適当な候補地もなかったため、とにかく白金の現校地に新築することとしている。今はその資金募集中でまだ建築に着手するまでに至っていない」旨を回答したところ、そのご夫人は「実は非常に良い候補地があり、先般某ミッションスクールに交渉したところ都合により見合わせとなり、甚だ残念に思うので本校のご都合は如何?」と答えられたとのこと。その大きさ5000坪、所在地は洗足付近、そして旧所有者、現所有者などを聞いて、井上校長は羨望の念を起こしました。なぜなら、香蘭女学校の生徒はこの洗足方面から通っている者がはなはだ多かったからです。また旧所有者は熱心なキリスト教信者で、信者で学費に苦しむ学生のためにゆくゆくはこの構内に寄宿舎を建てようと志していたというのです。
この土地を熱望している競争相手は某大名華族の百万長者と聞いて、井上仁吉校長は違和感を覚えました。遙か昔ならともかく、この時代にこの広大な土地を一貴族が住宅として占有することは、女学校を設けることと比較して如何なものであろうか、と。さらに、この洗足周辺の住民は女学校設立を望んでいて、さらに旧所有者未亡人は篤信のキリスト教信者でミッションスクールをこの地に設けることを強く希望していると聞いたからです。
11月11日に先の両夫人と洗足駅で待ち合わせた井上校長は、この土地を訪れ、構内・庭園・諸建物などを隈なく案内してもらい、申し分ない土地であるという確信を持ちました。19日には理事数名を連れて井上校長がこの土地を案内し、誰もがみな異口同音申し分ない土地であると賞賛しました。
香蘭女学校は至急理事会を開き、この地所を入手すべきと衆議一決しました。某華族との売買契約が成立しそうになっているとの急報を仲介の方から聞き、急ぎ譲渡希望の書面を作成して同月29日午後4時に交渉にでかけたところ、某華族への譲渡がその日の朝決定されたとのこと。しかし、八方手を尽くして陳情・交渉した結果、先般の譲渡の決定は覆り、遂に香蘭へ15万5千円で売り渡すことが決まりました。「香蘭女学校用地」という標柱が新校地の門前に建てられたのは1937年6月3日のことでした。これが現在の香蘭女学校の校地です。
ちなみに、前の道・中原街道のこの校地の前のあたりは、古くから「さいかち坂」と呼ばれていて、現在も学校前にその説明を記した標柱が立てられています。その「さいかち坂」に触れて、この年の6月5日に新校地見物に訪れた長橋政太郎名誉校長(この当時の前々校長)の「見校舎移転地記」という次のような文章が残されています。
「井上校長を始めその他実地踏査の方々がみな最善の邸地であると賞賛のことばを下さったので、私も一度実地を見たく思い、6月5日午後、車を拾って孫嫁静子と曾孫女美代子を伴い、校庭の門前の独角仙(さいかち)坂に着き、香蘭女学校敷地と書いてある新しい立派な標柱を見て本当に安堵しました。実地検分した方々から校地としては稀に見る最善のものと聞いていたが、実際に見て予想以上の良い土地であると思いました。また校地前後の坂は、独角仙(さいかち)坂と言って有名なものということですが、ちょっと面白く感じたその虫の形はカブトムシに酷似し、兜は頭の先に鹿角形の武器を備えているのでサイカチは牛角のようなものです。この仙虫が鋭い角を振るって校庭前後を護衛するのは実に面白くめでたい前兆です。
百聞不及一親観  今日来着意始安  独角仙虫振独角  警而隴上護香蘭
独角仙坂に至れば香蘭女学校用地という麗しく書かれた標柱が建てられています。校長先生の案内によって本館内を見て回り応接室、客間、食堂、書斎、寝室、図書室などを閲見しました。さらに校庭に出て四辺を観察したところ、庭地四辺の傾斜地を削り石堤を築き、上には綺樹芳草が密植し、荘庭はすべて高麗芝が生い茂り、緑色の毛氈を敷いたようです。このような土地に校舎を建てれば雑音は聞こえず、小川には野鳥のさえずりを聞くことができ、また校前後の坂名にあるように独角仙その他の虫類の吟声を聞くことができ、空気もきわめて清澄であるから、ここに生徒を収容し、その心身を啓発するのに最善の良地である上に、交通機関も追い追い整備され生徒の通学の利便が多いと思われます。」
さて、この土地は「しひゃくそう(四+百百+荘)」と呼ばれる土地でした。元々の持ち主は伊藤幸次郎という方でした。伊藤幸次郎氏は1865年に京都に生まれ、東洋汽船から満州日報社、そして乞われて日本鋼管会社設立に参画しました。設立された日本鋼管会社は、社長が伊藤氏の旧友である白石元治郎氏、取締役技師長が今泉嘉一郎氏、そして支配人・専務が伊藤氏。伊藤氏はまさに今日まで続く日本鋼管設立の鼎の一人でした。
伊藤幸次郎氏は邸宅を新築するたびに「しひゃくそう(四+百百+荘)」と命名していました。それは、伊藤氏の先祖が八百屋であり、その八百屋としての初心を子々孫々に至るまで忘れずにいるため、「百」の字を2つ書く書き方で4×200=800の名前をつけたとのことです。
近代日本最大のキリスト教指導者である植村正久氏によって受洗した伊藤幸次郎氏は、その死に臨んで「基督者の子弟にて学資に乏しき者のために一切の財産を提供したい」と遺言書に認め、当時数十万円と言われた全財産は、新たに設立された財団法人しひゃくそう(四+百百+荘)に譲渡され、そのすべてはつい最近に至るまで奨学金として大切に使われていたとのことです。
このしひゃくそう(四+百百+荘)は、広大な芝生の庭園・築山のほか、洋館とともに茶室「寸心庵」を擁しておりました。香蘭女学校が2005年に建設した茶室「芝蘭庵」は、この伊藤幸次郎氏の造った茶室・寸心庵の再構という意味を持っています。現在の芝蘭庵の建物や露地の様子は、しひゃくそう(四+百百+荘)にあった寸心庵のそれと酷似していますが、死後にまで貫いたキリスト者・伊藤幸次郎氏の尊い志を、現在の香蘭女学校も何としても引き継ぎたいという強い思いが、この芝蘭庵には込められているのです。
さて最後に、実はこの新校地に新校舎が完成するまで、この時から丸4年の月日を要します。これは、資金不足、日中戦争の勃発、資金調整法の制限、統制令発布による工事制限、資材の絶対的不足など、戦時に向かいつつあったこの時代の苦難の直接的影響によるものです。

(写真は左上より、伊藤幸次郎氏、白金三光町での校舎新築案デザイン図、新校地の門前の標柱、伊藤邸のアプローチと庭園、伊藤邸の本館(後に香蘭女学校教員室棟)、伊藤邸の茶室寸心庵)

2018年度中等科合格者保護者説明会が行われました2018年03月09日掲載

先日行われた中等科入学試験に合格をして入学手続きを済ませた児童の保護者の皆様を対象とした「合格者保護者説明会」が、今年も2月17日に礼拝堂で行われました。
それぞれの保護者の方々が緊張した面持ちで礼拝堂の座席に座られた中、鈴木校長からご挨拶と合格お祝いとこれからの中等科生活の心構えについての話がありました。
教頭からは学校生活に於いて特に心掛けること、特に早起きの習慣を少しずつつけること、朝食をしっかり食べることなど、近所の小学校に徒歩で通っていたのとは異なる4月からの生活に向けての生活リズム作りについて話がありました。
教務部長からは中等科の学習に向けて、どのような心掛けをしたらよいか、そしてどのような準備をしていったらよいかという話があり、各教科から出されている入学前課題についての説明がされました。
ICT委員会委員長からは、全員必携であるタブレットiPadについて、どのように使われるか、いつどのように購入するか、これから6年間の使われ方、などの具体的な話がされました。
事務所からは、納付金などこれから事務的にどのような手続きがあるかという説明がなされました。
保護者の方々は配布された資料を見たり、スクリーンに映し出される説明などを見たりしながら、メモをとって熱心に聴いていました。
2018年度入学の中等科1年生親子の香蘭生活の助走が始まりました。

今年度も中等科3年生がテーブルマナー実習2018年03月08日掲載

香蘭女学校ではずっと以前から、中等科3年生でテーブルマナー実習を行ってきました。社会に出ても恥ずかしくない振る舞いができるように、本格的なフランス料理をいただきながらの実習です。
今年度も例年通り、2月16日にお台場にある東京ベイ有明ワシントンホテルでテーブルマナー実習を行いました。生徒たちは講師の先生の説明をうかがいながら、魚・肉と続く本格的なフルコースを満喫しました。
当日は出かける前から生徒たちは大いにこの実習を楽しみにしていました。実習では、姿勢良く、ちょっと緊張した面持ちもありながらテーブルの隣近所の友人たちとさわやかに語らいつつ、フォークやナイフの正しい使い方に挑戦していました。ちょっと大人になった気分だったかもしれません。お味の方も大層良かったようで、大満足だったと感想を述べていました。
このテーブルマナー実習での体験を、是非今後の食事の場面で生かしてほしいと願っていますし、また今後オフィシャルな場に出る機会がある時にはレディーとして素敵な食事マナーを美しく披露してもらいたいと思っています。

カナダ中期留学プログラム参加生徒が学年礼拝で報告2018年03月07日掲載

既にこのホームページでご報告しましたように、三学期も各学年の学年礼拝が三光教会の聖堂で捧げられています。
この2月14日のホームルームの時間には、高等科1年生の学年礼拝が捧げられましたが、その学年礼拝の中で昨年7月から12月までの5ヶ月間、カナダのプリンスエドワード島にあるGrace Christian School(GCS)に中期留学した2名の生徒が、学年の生徒の伴奏による聖歌、同じく生徒2名による日課聖書朗読に引き続き、その5ヶ月のカナダ生活の報告をしました。
香蘭女学校で初めての中期留学に挑戦した2名の生徒は、その5ヶ月間の生活の中で、大変だったことや嬉しかったことなど、他の生徒たちには計り知れない苦労話も含めて具体的に話してくれました。
学年礼拝は、一緒に学校生活を送って苦楽を共にしている同じ学年の生徒全員が一同に会して、お互いの心を知り共感する場でもあります。今回の中期留学に参加した生徒の報告は、その良い機会となりました。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(25)2018年03月06日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第21回です。

《香蘭女学校の歴史 21 校歌の作詞者でもある第3代校長富田俊先生》

富田俊先生は1876年11月1日、岐阜県大垣で生まれました。1889年、東京市芝区鞆絵小学校を卒業後、京橋区築地新栄女学校に入学し、翌1890年には2年前の9月に創立された私立東京女学館に転校しました。そして1894年に東京女学館の第1回生として卒業しました。
この東京女学館在学中に富田先生は、英語をメリー・プリンスについて4年間学び、同時に1891年から5年間は私立村田塾に通って漢文を、さらに同じく1891年から10年の間は国語の古典を平田盛胤について学びました。また、1893年からは文学博士佐々木信綱について古典和歌を修め、以後45年間の長きにわたり竹柏会(ちくはくかい。短歌結社。1899年創立。佐佐木信綱主宰。現在まで続く)の同人として一心に歌道を歩みました。
一方、1895年に文部省教員検定試験を受験し、高等女学校国語科教員免許状を取得しました。さらに1893年より5年間、故実礼法を有住齊について修め、1897年に作法科教授免状を取得しました。1903年1月より普連土女学校に奉職し、1915年3月まで12年にわたり同校の国語教員の任にあたりました。
さて、香蘭女学校へは普連土女学校奉職に先立つこと6年、1897年より勤務し、実に36年の長きにわたり国語・国史を受け持ち国文科主任として生徒の教育にあたりました。在校生と卒業生の集いとして1896年から続いていた文学会の名称を1905年に改めて新たに校友会が創立された時には、富田先生は多大な尽力をし、またその校友会のうち在校生の団体として同交会が1916年に分離成立してからは、その同交会の指導にも熱心にあたりました。
1901年から長く校長をつとめた長橋政太郎先生が古稀を遥かに越えて勇退を決めた際に、長橋先生から強く請われて、1929年香蘭女学校の校長に就任することになりました。長く香蘭女学校に貢献し温厚な人柄で誰からも愛されていて、また女学校の校長に相応しい女性教員代表としての富田先生に白羽の矢が立ったものと思われます。富田俊先生は校長就任後、長橋先生が会長をつとめていた校友会の副会長も兼ね、激務の日々を過ごしました。1928年の昭和天皇即位の御大典の時には、長年女子教育に尽力した功績により文部大臣から表彰状と硯箱を拝受しました。
しかし、ついに体調を崩し1933年7月20日、一学期終業式の日をもって香蘭女学校を退職しました。退職後も校友会副会長は続け、学校は名誉教師の称号を贈っています。退職後、多忙の中で実現できなかった旅行に心を慰められて、折々の紀行文を集め、1936年12月に文集『落葉籠』を上辞しました。
しかし病は次第に悪くなり、しばしば聖路加病院に入院したりしていましたが、実兄の夫人が逝去したため1938年1月20日に東京から神戸に赴き、同24日葬儀に参列後にわかに発病し、1月30日午前1時20分、神戸の兄の家にて肺炎のため天に召されました。神戸昇天教会で覚前司祭の司式により、近親の方々や関西地方におられる富田先生の知己の皆様、そして香蘭女学校校友会関西支部(1931年6月に全国で初めての校友会支部として成立)会員たちが参列して密葬が行われました。2月5日にはご遺骸が東京へ移され、同日午後5時20分に富田先生の後任である井上仁吉校長をはじめとした教職員や檜垣茂校友会副会長ら校友60余名が東京駅で迎えました。そのまま午後6時には白金台町にある富田先生の自宅において野瀬司祭によって棺前の祈りの式が行われました。翌6日午後3時には逝世者のための祈りの式、7日午後3時出棺式が行われ、午後7時からは聖アンデレ教会で通夜の祈りの式、翌8日午後2時には聖アンデレ教会で埋葬式、同午後5時には多磨墓地で埋骨の儀が行われました。
亡くなられた第3代香蘭女学校校長・富田俊先生への弔辞のうち、和歌の師匠である佐々木信綱氏と、同僚である宣教師ミス ヘイルストンのものをご紹介しましょう。
■「しぬびごと」  佐佐木信綱
あはれ悲しきかも、あはれいたましきかも、わが富田のぬし。
君は、兄君をおもひ、姉君をいたむあまりに、いたづきもたりし身をも忘れて旅だちましつるが、そはとこしへに帰り来まさぬ旅路なりき。
いく十年、君の教をうけつる人々の真心よりのかなしびを見聞くに、また今更に、君世にいまさばの歎ぞ深き。
四十年あまり、歌文の道を語りかはししおのれとしては彼の落葉籠にあまれる言葉の花、文の錦多かるを、みづからあつめおきまさばと、君あらましかばの歎ぞ深き。
言葉みじかけれど、しのぶ思は長し。あはれ悲しきかも、あはれいたましきかも、わが富田のぬし。
■「Tomita Sensei」  E.M.Hailstone
It was a great sorrow to us all to lose dear Tomita Sensei early this year, and words cannot say how valuable, to a school such as ours, are its older Christian members, like herself and others whom we all know. She had been a friend to so many generations of girls, who always found her the same when they visited the school after they had graduated, and one heard of her often visiting and comforting them when they were in trouble, even after she had retired from being head mistress. She was also most kind to the members of the staff, both Japanese and foreign, and I feel that she gave as, the latter, an example of gentleness and courtesy which helped us to understand the true spirit of our adopted country.
Her love of beauty was an inspiration to us all, and surely she was a treasure house of literary culture. Both to Church and school she is a great loss and yet we must thank god that He has called her out of this troubled world to be nearer to Himself.
最後に、富田俊先生は現在も歌われている香蘭女学校校歌の作詞者としても知られています。「みやまに薫るあららぎも」から始まるこの校歌がいつ富田先生によって作詞され、いつから歌われ始めたものなのかはいまだ判然としません。ただ、現在残っている資料からは、少なくとも1923年には歌われていたことがわかっています。

(写真は左上より、晩年の富田俊先生、東京女学館卒業時の富田俊先生、香蘭女学校奉職後間もない頃の富田俊先生、退職後の富田先生謝恩会で長橋政太郎名誉校長とともに、聖アンデレ教会での富田先生葬儀で弔辞を述べる長橋名誉校長、富田先生作詞の校歌を3回生田中たき(旧姓:末川)が墨書したもの)

三学期の学年礼拝が三光教会聖堂で行われています2018年03月05日掲載

各学年が学期に1回、三光教会聖堂で捧げている50分間の学年礼拝。新しい年を迎えたこの三学期の学年礼拝も1月10日より始まりました。学年礼拝は、学年によっていろいろと異なる礼拝プログラムを工夫して捧げています。
2月21日は、中等科2年生の学年礼拝でした。まず、宗教委員の生徒のオルガン伴奏によって聖歌482番が奉唱されました。学年礼拝は高橋宏幸チャプレンの司式によって進められることが多いのですが、学年によっては生徒が司式をつとめることもあります。中等科2年生の学年礼拝では今学期も、宗教委員の生徒が礼拝前半の司式をつとめました。祈りのことばや詩篇121編の交唱など、宗教委員の司式に従って全員で唱え、さらに別の宗教委員の生徒の朗読によって日課の新約聖書「コリントの信徒への手紙 一」第1章27節~29節が奉読され、生徒たちは座ってその朗読に耳を傾けました。そのあと今回の学年礼拝の特別プログラムに入りました。
今回の中等科2年生の礼拝プログラムは、4クラス8人の各宗教委員がこれまでの人生における聖書と自分との関わりについてそれぞれお話をし、それを学年全員で分かち合うという内容でした。
宗教委員の司会によって始められたこのプログラムは、それぞれが自分の具体的な体験が、出会った聖書によって勇気づけられたり納得させられたりしたことを、その聖書の箇所を紹介しながらお話しするものでした。それぞれが、自分がマイナスにとらえていた自分の一面を、聖書のことばによって決してマイナスではないのだと背中を押してもらったり、人間関係に於ける辛いことを聖書のことばによって和らげてもらえたり、人前ではなかなか話せないようなことを、勇気を奮って学年全員の前でマイクを通して話してくれました。学年の生徒にとっては、その勇気に感心するとともに、自分と照らし合わせてみて共感する部分がたくさんあり、手許の自分の聖書をお話と同時に開きながら、仲間と自分が共にこの場で生きていることを実感できる時間となったようです。そのお話のあと短時間ではありましたが、生徒全員が、お話ししてくれた宗教委員と同じように、自分と聖書との具体的な関わりの経験を、周りに座っている友達と交換する時間も持ちました。
後半の司式を高橋チャプレンに交替し、諸祈祷があってから、主の祈り、祝祷を捧げ、最後に生徒のオルガン伴奏で聖歌308番を奉唱して、今学期の中等科2年の学年礼拝は終わりました。
学年の生徒全員が、実り多き時間を祈りの中に過ごすことができました。

今年度も中等科の授業公開が行われました2018年03月04日掲載

毎年恒例の中等科授業公開(保護者対象。授業参観)が今年度も行われました。
2月14日(水)にはまず中等科3年生が行われました。また2月17日(土)には、中等科1・2年生の授業公開が行われます。
授業は先生の講義だけでなく、生徒の発表によるものやグループ学習、ハーフクラスでの英会話の授業などもあり、またホームルームの教室での授業だけでなく音楽室での音楽や美術室での美術、被服室での家庭科、物理室や生物室での理科の授業、体育館棟アリーナでの体育なども公開されます。
保護者の方々は、自分の子どもの授業中の姿を見るだけでなく、学校の授業内容や方法にも強い関心を抱いている様子で、熱心にご覧になっていました。
その日は帰宅した生徒と保護者の方との間で、授業に関する話題が弾んだことでしょう。

香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(24)2018年03月03日掲載

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第20回です。

《香蘭女学校の歴史 20 白金三光町の通称「白金の丘」~寄宿舎「光風寮」》

1910年までの麻布永坂町時代の香蘭女学校には、全国から入学してきた生徒のために寄宿舎が用意されていましたが、1912年に白金三光町に移転してからも新たに寄宿舎が設置されました。当時は地方での女学校開校が相次ぎ、東京の女学校では寄宿舎が廃止される傾向にありましたが、そのような状況の中でも香蘭女学校では敢えて寄宿舎を設置しました。その設置に関する事情については、後に副校長ミス ルーシー・キャサリン・タナーが当時を振り返って次のように記述しています。「外国宣教師のため住宅問題が相談されました時、私は出来得るかぎり生徒達と生活を共にしたいという理由のもとに寄宿舎の設置されることを願いました。以来、当寄宿舎は多くは財政的に恵まれぬ牧師、教役者を援助する目的をもって最も経済的に経営を続けられました。なお、時に応じて英国にて寄附を募り他に修学の途を見出せなかった学生達をこの寮にて援助いたしました。この寄宿舎は極めて良き目的のために奉仕したと考えられます。或いは不幸を嘆き或いは怠慢の悪癖をもって入舎した多くの少女達は、寮の生活を通して幸福を楽しむ者となり、人生に確とした目標を見出すことを得て、働くことの喜びを味わう者となりました。勿論これは、私共に与えられた代々の優秀な舎監の力に負うところが最も多いのですが、私共はこの人々と寮舎に於いて互いに思想も主義も常に分かち合い、特にキリスト教信者の家庭の一員としての学生の訓育に協力いたしたのであります。私としては寄宿舎は学校と同様或いはそれ以上、重要なものと感じておりました。」
白金三光町の香蘭女学校寄宿舎は「光風寮」という名称で、その初期の舎監は草間芳枝先生でした。草間芳枝先生は毎朝生徒に旧約聖書についてのお話をしてくれた優しい舎監先生でしたが、アメリカにいたご子息に会いに行った後、旅の疲れからか1929年急逝されました。当時の寮生は14~5名で、和気藹々とした生活をしていました。夜の祈りは、シスターのチャペルで行われていたそうです。
草間先生のあと1930年から舎監に就任した三田庸子先生には、寄宿舎での事件のニュースが残されています。1934年7月26日午前2時頃、寄宿舎のトイレの窓を外して強盗が忍び入り、玄関脇の六畳間に寝ていた三田庸子先生を蚊帳の外から短刀を手に「50円出せ!」と脅迫しました。最初は愛猫フミちゃんの悪戯かと思っていた三田先生が起き上がると、手拭で覆面した27~8歳で黒っぽい背広に素足という姿の男が目の前にいました。三田先生は「そんなにはありません。これを持ってって頂戴」と財布から素早く10円札2枚を抜いて渡すと、強盗は「もう少し出せ」と言うので「もうありません」と答えると、「それではその腕時計を出せ」と強盗はねだり、プラチナ台腕時計を奪った上に「静かに静かに」と言い残して猫のように静かに立ち去りました。新聞記者に三田先生は、「あんな若い身で強盗をするなんて可哀想ですわ。」と話しています。1934年まで寄宿舎舎監をつとめたこの三田庸子先生は、後に和歌山で日本初の女性刑務所長となり、またその後東京婦人補導院で初代院長をつとめることとなります。
三田先生のあとには、千村重子先生や稲田旭子先生などが舎監をつとめ、副校長ミス タナー、さらにミス エイミー・キャスリーン・ウーレー、ミス メアリー・エレノア・ヘイルストン、ミス コンスタンス・マリア・エドリンといった外国人女性宣教師たちも、生徒たちとともにこの寄宿舎に住まいました。その頃は食費と寮費合わせて19円だったそうです。寄宿舎1階は風呂場、トイレ、食堂、ピアノのある部屋、舎監の先生の部屋、客間、英国の宣教師の先生の居間等があり、2階の両端に先生方のお部屋と病室が並んでいました。寮生の部屋は寄宿舎の2階に5部屋あり、6畳には2人、8畳には3人の割合で部屋割りされ、毎学期の初めに部屋替えがありました。各部屋の畳は縁のない琉球畳で、窓と柱の間は三角形の隙間があり、木造2階建ての古い建物だったため、地震があると大変揺れたそうです。
寄宿舎の一日は、お手伝いの広沢さんかお信さんが階段の下で鳴らす「カラン、カラン」という鐘の音で起床して始まります。朝食の前にそれぞれの決められた当番の場所のお掃除や、朝食のお膳立てをし、その時にミス タナーやミス ヘイルストンが起きてきて「グッドモーニング、きれいになりますね」と声をかけてくれたので、寮生たちは嬉しくて一生懸命階段や廊下の雑巾がけをしたそうです。朝は日本間の応接間で、夜は宣教師の先生方のお部屋で、お祈りがありました。宣教師の先生方とは必ず一日に一度、昼か夜か一緒に食事をする決まりになっていました。お昼休みに学校から帰ると、入寮時に持って来た自分の茶碗がのった各自のお膳が、食堂のコの字型のテーブルにきちんと並べられていました。真ん中に千村重子先生と稲田旭子先生、その向かい側に、ミス タナー、ミス ヘイルストンのお膳。先生の隣に座るのが少し窮屈で、早めに食堂に入って自分の茶碗を遠くの方に変えてしまったり、仲良しと隣同士に置いたりといった悪戯をした生徒もいました。また食事の時宣教師の先生方が、箸で味噌汁や漬物を器用に食べるのに生徒は最初はびっくりしたそうです。土曜日の夜は必ず、翌日の主日の特祷についてのお話がありました。日曜日は安息日で、礼拝に出る以外は自由でしたが、お金を使って買い物をすることは禁じられていました。夜の自習時間もなかったので、晩祷から帰るとすぐに部屋に入るのが惜しくて、月や星の明るい夜などは、空を見上げながら運動場で、「浜千鳥」などいろいろな歌を歌ってロマンチックな気分に浸ったそうです。
寄宿舎で最も怖かったというミス タナーの意外に優しい一面を伝える逸話が、45回生の一方井敬子(旧姓:永山)さんが後に記した文章に残されています。それは次のような逸話です。「ミス・タナーは謹厳で、お父様のようで、ミス・ヘールストンはお優しくてお母さまのような感じでした。1年下の今里千鶴子(後に井上)さんは、時々、お風呂場から腰にタオルを巻きつけて、裸で廊下に飛び出す事があり、私共は、ミス・タナーに見つかりはしないかとハラハラしていました所、案の定一度見つけられてしまいましたが、珍しく笑っていらっしゃったので安心した事があります。寄宿舎のピアノの練習をしている時、間違っていれば必ず来て注意をして下さるものでした。けれども、或る時、ミス・タナーから『あなたが午後、弾いていたショパンのノクターンはとてもきれいだった。職員会議の時、寄宿舎からきこえて来るピアノを聴いていて、いい気持になった』と誉められて嬉しかったのを覚えて居ります。」

(写真は左上より、寄宿舎とミス タナー、草間芳枝舎監、愛猫フミを抱く三田庸子舎監、稲田旭子舎監、ミス エドリン、46回生の今里千鶴子さん(後に井上)の卒業記念集合写真)

復活日に向け大斎始日の礼拝を捧げました2018年03月02日掲載

香蘭女学校の毎朝の礼拝は、教会の暦に従ってささげられています。今年は2月14日が大斎始日にあたります。この日の朝の礼拝は特別に、「大斎始日の礼拝」として捧げられました。
イエス・キリストの復活日(イースター)は、西方教会では太陽暦に従って春分の日の直後に来る満月の次の日曜日と定められています。今年の復活日は4月1日。そして、その前の日曜日を除いた40日間を大斎節と呼んで、キリストが苦難を受けたことを思い巡らして礼拝を守る期間としています。この期間はイースターに洗礼に授かる人々の準備の期間であるとともに、信仰の原点に思いを馳せ、断食や克己、節制することが求められています。また、私たちの日常生活をふりかえる大切な時です。そして、この期間のはじめの日が、大斎始日(あるいは灰の水曜日 Ash Wednesday とも呼ばれる)です。
香蘭女学校での大斎始日の礼拝は、毎日の通常の礼拝同様高橋チャプレンの司式でささげられますが、加えて宗教委員の生徒たちによって聖書の中で大斎節のために用意された箇所が読まれ特別な祈りが捧げられます。今年も4人の生徒たちが大斎始日の礼拝の奉仕をしました。大斎節の謂われを述べ、日課朗読としてマタイによる福音書第4章1~11節を朗読、アッシジの聖フランシスの祈り(平和の祈り)をささげ、さらに大斎始日の祈り(大斎始日特祷)を捧げました。そして、全員で聖歌129番と125番を歌いました。
この日から香蘭女学校は、復活日に向けて心静かに大斎節に入りました。

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