香蘭の歩み

第1期 ① 創立に向けて

英国国教会は明治初年、SPG(福音宣布協会)、CMS(教会伝道協会)の2つの伝道協会により日本伝道を開始し、1886(明治19)年には第2代日本主教エドワード・ビカステスを派遣しました。ビカステス主教は当時英国の2つの伝道協会と米国聖公会伝道局とが行っていた伝道活動の統一を主導し、1887(明治20)年2月、日本聖公会の組織成立を実現させました。と同時に、男子の聖アンデレ伝道団と女子の聖ヒルダ伝道団を創設し、女子教育の必要性を痛感したビカステス主教は聖ヒルダ伝道団の諸事業の一つとして女学校の設立を図りました。聖ヒルダ伝道団の事業はほかに、伝道活動・日本婦人伝道師の育成、診療所の開設等がありました。

ビカステス主教は、日本女性固有の徳性をキリスト教倫理によりさらに昇華することを目的として、1887(明治20)年10月、若きキリスト者・今井寿道をして香蘭女学校設立願を出願させ、同11月認可されました。

ヒルダ像

ヒルダ像

ビカステス主教

ビカステス主教

芝区栄町にあった主教館

芝区栄町にあった主教館

今井寿道初代校長

今井寿道初代校長

第1期 ② 麻布永坂時代

1888(明治21)年3月、島津忠亮子爵家より30年契約で借りた麻布区永坂1番地の1644坪の土地に校舎落成、4月開校。終業年限4年、当初の生徒数7名、7月には16名となりました。

永坂校舎の校門

永坂校舎の校門

永坂の新しい校舎

永坂の新しい校舎

永坂校舎にあった礼拝堂

永坂校舎にあった礼拝堂

1890(明治23)年には予科(2年)や小学科が置かれ、本科・予科・小学科の体制となり、また同9月には尋常小学校(香蘭女子小学校)が付設されました。(生徒数37名)

また、同時期聖ヒルダ伝道団は女学校と同じ敷地内に、諸事業の施設を次々に開設しました。例えば、診療所としてはデスペンサリ・聖慈堂病院を1891(明治24)年5月に、また濃尾地震による孤児収容のために同年12月には孤女院として清蕙幼女学校を、1895(明治28)年に現在の虎ノ門に開設した聖ヒルダ養老院も1898(明治31)年にはこの麻布永坂に移転しました。

この永坂時代とそれに続く白金時代は、香蘭女学校を取り巻く環境は、さながら一大総合社会施設のようでした。香蘭女学校の生徒たちは、その中でキリスト教の空気を十二分に感じ、また実地にさまざまな社会的活動に携わる機会を自然と持つようになりました。

香蘭女学校の組織はさらに充実し、1896(明治29)年には卒業生と在校生の集いである文学会が設立されました(後に校友会と改称)。1897(明治30)年には手芸部が、1899(明治32)年には刺繍専攻科が設置されました。1902(明治35)年には制度変更をして全体を英語科と邦語科に分け、英語科の生徒の授業はすべて英語で行われました。1903(明治36)年になると全体を本部・神学部・手芸部に分けることとなり、それぞれに予科・本科を置きました。1906(明治39)年には割烹科を新設。1910(明治42)年には、予科を廃止しその代わりに本科の上に高等科(修業年限1年)を置き、本科の修業年限を5年としました。そのころには、生徒数も100名を上回るまでになりました。

東京でも遠方の生徒、北海道・九州・小笠原出身等の生徒たちのために寄宿舎が設けられましたが、女性宣教師たちが生徒たちと起居を共にした寄宿舎は、淑女としてのマナーや品位の育成に欠かせない重要な施設として、学校と同等に重要視されました。ミス E.ソントンやミス M.リカーズをはじめとした寄宿舎館長、生地新子・山口直子ら舎監らの優しくも厳しい指導は、香蘭女学校の凛とした空気をつくってゆきました。

1897年頃の生徒宣教師・教師ら。右上は今井寿道校長。その前は長橋政太郎教頭

1897年頃の生徒宣教師・教師ら。右上は今井寿道校長。その前は長橋政太郎教頭

校庭でスポーツに興じる生徒たち

校庭でスポーツに興じる生徒たち

清蕙幼女学校

清蕙幼女学校

ミス ソントン

ミス ソントン

ミス リカーズ

ミス リカーズ

生地新子 舎監

生地新子 舎監

山口直子 舎監

山口直子 舎監

1903(明治36)年には同敷地内の聖ヒルダ養老院の方々のために、第1回バザーが開催されました。これが今日まで続く香蘭のバザーの始まりです。

1910(明治43)年11月16日午前0時20分、失火による火災によって36室を焼失しました。しかし、存続を望む声が大きく、国内・海外の人々の協力により再建されることになりました。

第1回バザー

第1回バザー

1903年 第12回卒業生と。前列中央はミス ケント・ミス リカーズ。後列中央は長橋政太郎校長

1903年 第12回卒業生と。前列中央はミス ケント・ミス リカーズ。後列中央は長橋政太郎校長

永坂時代の香蘭女学校卒業証書

永坂時代の香蘭女学校卒業証書

海外で掲載された火事焼失の香蘭への募金呼びかけ記事

海外で掲載された火事焼失の香蘭への募金呼びかけ記事

永坂の校舎の焼け跡での生徒たち

永坂の校舎の焼け跡での生徒たち

第2期 白金三光町時代

芝区白金三光町360番地、山路将軍邸跡の2500坪余の土地に新校舎完成、1912(大正元)年9月19日、落成式が行われました。今日、この日が創立記念日となっています。

白金三光町の新校舎

白金三光町の新校舎

白金三光町の新校舎玄関

白金三光町の新校舎玄関

英国殿下の名を冠した講堂・コンノートホール

英国殿下の名を冠した講堂・コンノートホール

卒業生・在校生から成っていた校友会は、会員の増加により1916(大正5)年5月、卒業生は校友会、生徒は同交会を組織するようになりました。

このころも永坂時代同様、多くの英国からの宣教師たちの労苦をいとわぬ努力により、良質の教育が続けられました。

1920(大正9)年1月、ミス M.グリンストリートの指導のもとに、英国ガールガイドの支部「日本女子補導団東京第一組」が香蘭女学校に誕生しました。また同年、音楽の教師として来日していたミセス W.D.スパックマンの指導により聖歌隊(現・クワイヤー)が創設されました。

ミス グリンストリートと初期のガールガイズ(現・ガールスカウト東京第一団)

ミス グリンストリートと初期のガールガイズ(現・ガールスカウト東京第一団)

寄宿舎でのミス タナー

寄宿舎でのミス タナー

宮城外苑での勤労作業

宮城外苑での勤労作業

副校長 ミス タナー

副校長 ミス タナー

校庭での体操の授業

校庭での体操の授業

白金三光町時代のナザレ修女会

白金三光町時代のナザレ修女会

ミス グリンストリート

ミス グリンストリート

ミセス スパックマン

ミセス スパックマン

また麻布永坂時代同様、同時期聖ヒルダ伝道団は女学校と同じ敷地内で諸事業を展開しました。1910(明治43)年に閉校となった清蕙幼女学校に代わって孤児院としての聖ヒルダ瑶光ホームを開設、1912(明治45)年に香蘭女学校で廃止された手芸部を代わりに設置し、さらに神学校(聖ヒルダ女子神学部)、修女館(エピファニ・ホーム)、日本女子修道会(ナザレ修女会)等も香蘭女学校と同じ敷地に次々と建設されてゆきました。

昭和に入り、次第に戦争の色が濃くなり、1937(昭和12)年日中戦争が勃発、女学生も勤労奉仕に動員されるようになりました、日英関係の悪化により、1940(昭和15)年に長く副校長の任にあたっていたミス L.K.タナーが、1942(昭和17)年にはミス A.K.ウーレーとミス M.E.ヘイルストンが相次いで帰国し、香蘭は暗黒の数年間を迎えます。

第3期 戦時中の暗黒時代

生徒数増加により、1937(昭和12)年に購入した4320坪の土地に校舎を新築、完成した荏原区平塚7丁目1046番地(現在地。後の旗の台)に1941(昭和16)年3月、香蘭女学校は移転しました。著名な実業家であった伊藤幸次郎氏(日本鋼管の創立者の一人。1928(昭和3)年没)の邸宅跡で、1918(大正7)年竣工の英国コテージ風の瀟洒な洋館を教員室のある本館として生かした校舎で新しい学校生活は始まりましたが、すぐに太平洋戦争に突入。戦争の激化に伴い校内に帝都防衛部隊が置かれ、やがて教室は工場と化してしまいました。

平塚の新校舎

平塚の新校舎

講堂兼体育館

講堂兼体育館

伊藤幸次郎邸の洋館を生かした本館前に立つ井上仁吉校長

伊藤幸次郎邸の洋館を生かした本館前に立つ井上仁吉校長

香蘭女学校は高等女学校に改組され、キリスト教教育が全く行えなくなりました。また、軍部に強いられて鈴木二郎教頭、そして第4代井上仁吉校長・志保澤トキ教諭らが相次いで退職させられ、代わりに東京都の教育庁から視学官・篠原雅雄が派遣され無理矢理校長になるという、香蘭にとっては学校史上最も暗い時期を耐えて過ごさねばなりませんでした。ただ生徒たちは、心ある先生たちとともに密かに聖歌を歌ったりしながら、この辛い時期も心豊かにあろうとし、そして深い信仰の中にありました。

1945(昭和20)年5月24日夜の空襲で校舎は全焼しました。そして、8月15日敗戦。数日後の復校の宣言式で、理事長・佐々木鎮次主教は拷問によって痛めた足を引きずりながら焼け跡に立ち、まず神に感謝の祈りを捧げ、続いて全校生と教職員に向かい復校の宣言をし、さらに篠原校長の罷免を発表しました。この時から香蘭女学校は、戦後の忍耐の時期を経て、新たな希望の時代へと歩を進めます。

軍部に強いられて退職する井上仁吉校長と志保澤トキ教諭を送る

軍部に強いられて退職する井上仁吉校長と志保澤トキ教諭を送る

空襲で全焼した校舎の焼け跡

空襲で全焼した校舎の焼け跡

第4期 ① 九品仏時代

校舎焼失後、青空の下で授業をしたり、あるいは近所の神社や第二延山小学校の校舎の一部を一時借りるなど不自由を強いられてきましたが、1945(昭和20)年11月、九品仏浄真寺の境内の一棟を校舎として借りることができ、授業を本格的に再開しました。聖書を読み聖歌を歌う礼拝の隣からは木魚の音が響いてくるという環境でした。が、学校を離れていた教職員らも相次いで復帰、ミス A.K.ウーレーやミス M.E.ヘイルストンも英国から帰任し、校舎の再建される日を待ちつつ、物の乏しさに耐え3年の歳月を過ごしました。逆境の中でも心豊かな教育がなされました

統的な行事も順次復活し、新たにチャプレン制度を導入し、松坂勝雄司祭が就任しました。新学制が発足し、香蘭高等女学校は香蘭女学校中等部・高等部に分かれることになりました。

九品仏仮校舎

九品仏仮校舎

仮校舎での授業

仮校舎での授業

ミス ウーレー

ミス ウーレー

ミス ヘイルストン

ミス ヘイルストン

第4期 ② 戦後復興時代

内外からの援助のもとに、1948(昭和23)年11月、職員室と8教室から成る木造の新校舎を竣工し、九品仏から香蘭女学校は元の校地へ戻りました。1951(昭和26)年には第二期工事として特別教室等の増築が行われ、ようやく完全に正規の授業が可能になりました。

1955(昭和30)年9月には、セント ヒルダス ホール(講堂兼体育館)が完成、1957(昭和32)年11月には鉄筋コンクリート造りの特別教室棟(後の旧・南館)、さらに1959(昭和34)年7月、北軽井沢に元フランス大使加藤外松氏所有の1732坪の土地を購入し、そこに山荘(清香寮)が完成しました。現在も中等科1年生でクラスごとに行われている山荘生活は、翌1960(昭和35)年7月から始められています。1961(昭和36)年には校舎と校舎の間にプールが開設され、1975(昭和50)年まで使用されました。

1963(昭和38)年には、英国の学校の制服に範をとって、ブレザーとフレアースカート、白ブラウスの制服が制定されました。学校の制服にエンブレム付きのブレザーという形を取り入れた先駆けで、現在まで続くこの制服は、どんな公式の場でも恥ずかしくないものとして大切に守られています。また同年、校地の裏通りをはさんだ北側の261坪の土地を購入し、そこに分教室が開設されました。1955(昭和30)年から1972(昭和47)年まで続いた専攻科はこの分教室に置かれました。

再建になった新校舎

再建になった新校舎

特別教室棟(旧・南館)

特別教室棟(旧・南館)

校舎と校舎の間につくられたプール

校舎と校舎の間につくられたプール

球技大会(後方の建物は米軍の兵舎だった「かまぼこ校舎」)

球技大会(後方の建物は米軍の兵舎だった「かまぼこ校舎」)

専攻科が置かれた分教室

専攻科が置かれた分教室

セント ヒルダス ホール

セント ヒルダス ホール

北軽井沢の山荘清香寮

北軽井沢の山荘清香寮

専攻科の英文タイプの授業

専攻科の英文タイプの授業

戦後第二期校舎建築計画の開始 東館

戦後第二期校舎建築計画の開始 東館

1965(昭和40)年9月、校名を1949(昭和24)年以来使ってきた香蘭中学校・香蘭高等学校から、香蘭女学校中学校・香蘭女学校高等学校に改めました。また、1972(昭和47)年5月には、建築家の清家清氏を初代会長に香蘭女学校父母の会が発足しました。1972(昭和47)年6月、現在の東館が竣工。今日に至る一連の新校舎建築がここから始まりました。
1964(昭和39)年頃よりその内容や運営方法が変えられ文化祭の形をとることになった同交会は、1973(昭和48)年にヒルダ祭と改称、1969(昭和44)年に発足した生徒会の最大行事として今日に至っています。

香蘭最後の宣教師ミス チャンドラがこの頃の教育を支えました。1976(昭和51)年には、高等科時代に国際感覚を養うとともに英国の伝統に触れるという趣旨で、第1回英国セミナーが行われました。16泊17日の日程で、ワーズワースの生家やウィットビーの聖ヒルダ修道院、立教英国学院など数々の地を巡るこのセミナーは、1982(昭和57)年まで続きました。
ミス チャンドラ(1953年~1985年在任)

ミス チャンドラ(1953年~1985年在任)

英国セミナー  ウィットビー聖ヒルダ修道院

英国セミナー ウィットビー聖ヒルダ修道院

第5期 校舎整備時代

1977(昭和52)年より一学年4クラスに増え、現在に至っています。また、久しく活動を休止していた聖歌隊が、この年再編成され、後に名称を改めクワイヤーとなっています。

香蘭が発祥の地であるガールスカウトも、1980(昭和55)年には発団60周年、1990(平成2)年には70周年……と10年ごとに記念式典が行われています。また、1987(昭和62)年5月には創立者E.ビカステス主教の従孫J.M.ビカステス主教がUSPG・CMS代表として来校され、生徒と話されました。

また同じ頃、豪州パースから同校名のSt. Hilda’s Schoolの生徒たちが香蘭を訪れました。

高等科卒業生に父母の会がペンダントトップを贈ることになったのが1981(昭和56)年、校友会がスクールリングを贈るようになったのは1984(昭和59)年のことで、ともに今日も毎年続けられています。

本格的な校舎建築は、創立90周年記念事業として1977(昭和52)年8月に本館、1978(昭和53)年3月に管理棟が竣工、さらには1983(昭和58)年3月に礼拝堂(講堂)が完成しました。さらに創立100周年記念事業として1990(平成2)年5月に、元々分教室のあった裏通りをはさんだ北側の校地に新たに建設された聖ヒルダ記念館(兼 校友会館・校宅)が、また1997(平成9)年9月には創立110周年記念事業として新・南館が竣工しました。なお、1998(平成10)年には全館に空調設備(冷暖房)を完備しました。

1987年5月 J.M.ビカステス主教来校

1987年5月 J.M.ビカステス主教来校

1980年 ガールスカウト発団60周年記念

1980年 ガールスカウト発団60周年記念

オーストラリアのパースにあるSt. Hilda’s  Schoolの生徒たちの来校

オーストラリアのパースにあるSt. Hilda’s  Schoolの生徒たちの来校

第6期 新たなる発展時代

2003(平成15)年9月には全面を最新の砂入り人工芝に張り替えた校庭が完成しました。

また2002(平成14)年から2003(平成15)年にかけて、本館・東館の生徒用トイレを最新設備のものに全面改修し、生徒が安心できる清潔で明るい空間が各階に生まれました。

2005(平成17)年3月には、香蘭女学校創立の理念を具現化したビカステス記念館と茶室・芝蘭庵、および周囲の英国庭園・日本庭園が完成し、平行して行われた築山の大規模な再整備と併せて、香蘭女学校の長年の歴史が醸し出す独特の空間の雰囲気を、より高め、深める役割を果たしています。この二棟の建築は、日本建築美術工芸協会第15回AACA賞奨励賞を受賞しました。

また、バリアフリー対策として礼拝堂に昇降機や手摺り、本館に小エレベーターを設置、地震等の安全対策として生徒用ロッカーの転倒防止強化や東館耐震工事が行われました。校門脇の警備ハウスが2005(平成17)年6月、蘭をデザインした校門の新門扉が2006(平成18)年12月に完成しました。

ソフト面では、英語の少人数教育制(Half ClassとFull Classの並立制)や、選択授業のSE学習(Self Enrichment Study)、高等科3年の進路別授業組み替え、高等科3年生に対する出張講義などをはじめとした香蘭独自のカリキュラムを順次スタートさせています。特に、中等科のSE学習の中には日本の伝統文化を学ぶコースを積極的に設置し、茶道・華道・書道・箏曲・能楽・剣道・囲碁等を教養として、多くの生徒が学べるようにしています。

2007(平成19)年度からは高等科3年生が中等科1年生の学校生活のお世話をするBIG SISTER制度が始まりました。また学習面では、学習ボランティア制度により高等科3年生が中等科生の学習アシスタントをしています。

2004(平成16)年度からはアメリカCCES(Christ Church Episcopal School)との短期交換留学を手始めに国際交流プログラムが新たにスタート、その後イギリスの伝統あるハロウ校のインターナショナルサマーコースへの参加など、中高生ともに海外での研修の機会を多く設けています。2008(平成20)年からは韓国の昌徳(チャンドク)女子高校との相互交流を含めた大韓聖公会の全面協力による韓国研修、2010(平成22)年からはアメリカのキャンプ・スティーブンスでの夏期キャンプへの参加、2011(平成23)年からは立教英国学院に於ける1年以上の長期留学も始まりました。

国内の校外活動でも、それまで長年行われてきた冬のスキー教室に加え、2006(平成18)年度から新たな夏の校外活動プログラムが開始され、北軽井沢山荘での自然体験、また広島での平和学習など、生徒自身が自由に選択して主体的に、そして学年を越えて楽しく参加する機会としています。

香蘭教育の根幹である宗教教育においても、ホームルームの時間を使ってお隣の三光教会の礼拝堂で学期に一回行う学年礼拝を、クラスの宗教委員が中心となってチャプレンとの協力のもと実現させ、毎朝の全校礼拝や一日の終わりに各クラスで静粛のうちに行われている終業の祈りなどとともに、祈りの時間を大切にしています。また、毎朝の全校礼拝ではオルターギルド・聖書朗読者・オーガニスト、式典ではアコライトギルド等の礼拝奉仕の生徒たちが、その進行の大切な部分を主体的に担っています。さらに、浅草の路上生活者への給食活動、お年寄りの施設のベタニヤホームや聖路加国際病院等でのボランティア、そして東日本大震災以降は仙台・名取・石巻・釜石など被災地でのボランティア等に、さらに高等科3年生になると知的障がい者のための社会福祉施設の滝乃川学園、重度の知的障がいと重度の肢体不自由を併せ持つ重症心身障がい児の療育施設の秋津療育園等でのボランティアに、生徒たちは自らの意志で積極的に参加し活躍しています。お隣の三光教会との相互協力関係を深めるための協議会も2012(平成24)年11月より始まりました。さらに、2013年3月に、香蘭女学校校長、三光教会牧師、東京教区主教の署名、捺印による覚書が交わされました。

2008(平成20)年4月より、校名呼称を学校の歴史に相応しい香蘭女学校中等科・高等科に改め、さらに新体育館棟のお披露目を兼ね在日英国大使をお招きして行われた2009(平成21)年1月の創立120周年記念式典、さらに同9月日本聖公会宣教150周年を記念した英国・カンタベリー大主教の50年ぶりの来校を経て、香蘭女学校の歴史にまた、新たな1ページが作られ始めています。

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