チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2025年05月01日掲載

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪びとだと決めるな。そうすれば 、あなたがたも罪びとだと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される 。」ルカによる福音書6:37

先日、天に召されたフランシスコ教皇は、特定のグループの人についてどう思うか尋ねられた際、次のように答えました。「彼らが主を受入れ、善意を持った人々なら、私は彼らを審判する立場にありません。彼らは差別されるべきではありません。彼らのライフスタイルは問題ではありません。むしろ、彼らを受け入れられない我々に問題があるのです。彼らもまた私たちの兄弟姉妹なのです。」この12年間、このフランシスコ教皇の言葉は私の頭から離れませんでした。

つい先月のイースター、フランシスコ教皇は人々を祝福するため、最後の力を振り絞りました。バチ カンのサンピエトロ大聖堂のバルコニーに現れた教皇は、死を目前にした弱々しい姿でしたが、その精 神力は巨人そのものでした。教皇の最後のメッセージは、世界平和、とりわけ、ガザ、ウクライナ、スーダン、ミャンマーの平和を願い求めるものでした。教皇は、武器ではなく援助を、残虐ではなく同情を求めました。また、窮地にある難民や移民などに対して、国境を閉ざさないでほしいと訴えました。

フランシスコ教皇のメッセージは、勇気とは何か、信仰とは何かを示しています。最後の説教にふさわしい崇高なメッセージは、滅私、人間愛、謙虚、希望に満ちたものでした。

フランシスコ教皇は命を削って、息も絶え絶えに、私たちに希望、赦し、愛というイースターの精神を示してくれました。その精神が世界の羅針盤となってほしいと切に願います。人は、報復をたくらみつつ、神の復活を説くべきではありません。イエスを賛美しておきながら、虐げられ、さまよう人々に冷淡であるべきではありません。そして、共感や同情を求める人々に無理解でありながら、自分は神様の僕(しもべ)だと謳うことはできません。

在任中、キリスト教的美徳があざけられ、無視され、陰りを見せてきた中、愛に溢れるリーダーシップで私たちを導いてくださったフランシスコ教皇に限りない感謝をお捧げします。

香蘭女学校チャプレン  マーク・ウィリアム・シュタール