チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2025年08月01日掲載

「互いに重荷を担いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。」
ガラテヤの信徒への手紙6:2

8月は私たちが悲惨な戦争の終結を覚える季節です。戦後80年を数える今年は、特に意味深い終戦記念日となります。しかし近年、この80年間に学んだはずの平和の尊さが世界各地で軽んじられていることを憂慮します。平等、謙虚、分かち合い、親交といった価値観が、富、特権、権力などへの執着によってないがしろしされています。その影響からか、私たちの日常においても犠牲を嫌う傾向があります。多くの場合、愛は何らかの犠牲を伴います。今日、愛が希薄になっている背景には今の社会の状況があると言えます。

戦前の長崎でも宣教活動をしたマクシミリアノ・コルベ神父は、帰国後、ナチスドイツの残虐な迫害の中にあって、愛と犠牲の力を示しました。コルベ神父はポーランドで自分が住んでいた修道院を臨時病院に転用し、ナチスを逃れた多くの人々をかくまいました。その数は老若男女2000人にも上りました。やがて修道院は閉鎖され、コルベ氏はアウシュビッツ収容所に送られます。ある時、一人の男が収容所から脱走しました。更なる脱走者が出ないよう、見せしめとして10人の収容者が餓死させる目的で地下室に送られました。そのうちの一人が「妻よ!娘よ!」と叫んだのを聞き、コルベ氏は自分が身代わりになると申し出ました。2週間の絶食後、生き残ったのはコルベだけでしたが、地下室を空けるために彼は1941年8月14日に毒殺されてしまいました。

キリスト教の歴史には、大小多くの犠牲がちりばめられています。それは、イエス様の愛に満ちた十字架上の犠牲に倣ったものです。多くのキリスト教徒には自己犠牲、人のために尽くす精神があります。一方、私たちは80年間続いた平和に慣れ過ぎ、犠牲を払うことに抵抗感があります。キリスト教徒は、この狭間でジレンマを感じます。愛の行動には、ある種の犠牲が伴います。私たちが日々の生活の中で、人のためにわずかでも愛の行動を取ることができれば、それはキリストを生きることになります。

コルベ神父は、アウシュビッツで最期を迎えるまで、何千回も人のために自分の命を危険にさらしました。私たちがそのような立場に立つことはありませんが、日々人のために動く、人の重荷を代わりに担う機会はあるはずです。そのような行動は、とても尊く神聖なものです。

香蘭女学校チャプレン
マーク・ウィリアム・シュタール