チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2019年03月01日掲載

確か2004年から執筆が始まりましたこの「チャプレンコーナー」ですが、今回を持ちまして筆を置くことになります。毎回拙い文を長らく御覧いただきました方がたに心から御礼と感謝をお伝え致します。加えまして、時代の流れでしょうか、海外在住の方がたの目にも触れていたことには驚きでした。
2002年4月1日、当時は三光教会牧師との兼務でしたが、チャプレンとして赴任しました。チャプレンは単なる礼拝係ではありません。もちろん、礼拝は要ですし、祈りに始まり祈りに終わる毎日の生活の積み重ねは大きなものになります。多くの卒業生から「大学に行ったら礼拝がなくて何か淋しい」という声を聞きます。驚きとともに、嬉しくもありました。毎朝千人を超える教職員、生徒が集まります。心の内に秘め、抱えているものは全く同じではありません。けれども、新たな日を、命を与えられたことへの感謝、そのことは共通しています。加えて、他者を覚え、さらには先立たれた方を憶えて祈る、そこでは心ひとつになります。また、祈りとは決して綺麗ごとの羅列ではなく、神という大きな命の働きの中で自らと向き合い、自らを問う闘いでもあることを思わされてもきました。
他校のチャプレンとして長らく奉仕してこられた大先輩の聖職から言われたことがあります。「チャプレンはとにかくそこに居ろ。そして、歩き回っていろ」と。当初は「それだけでいいの?」と思ったものでした。しかし、海外で聖職叙任の礼拝に出た時のことを思い浮かべました。叙任される一人一人の名前が呼ばれますと「I am present」と応えます。「(他の誰でもない)私がいます!」という意味になりましょう。「借り物でもなく、偶然の産物でもない、同時に弱さやほころびを持ち合わせながらも、掛け替えのない、尊い命を授けられた私がいます」、実に信仰的な応答であると感じさせられたものでした。その尊い命を授けられている、年齢の上では二十歳にも満たない生徒たちですが、同時にそれは私にとって命の通っている生きた教科書でもありました。時に笑い、時に泣き、怒ったり不貞腐れたり、あるいは微笑む姿は、数々の生きているメッセージそのものであり、宝といっても過言ではありませんでした。
いま一つ一つの思い出を書き出すなら、おそらく何冊もの小説ができるでしょうが、紙面の関係もあるのでそうはいきません。けれども、大小さまざまな出来事や事柄は、命はいつでもつながりの中で生かされ、豊かに育まれていくことを気付かされ、教えらえるものでありました。さらにキリスト教信仰から言いますなら、その命のつながりは死をもってしても決して途切れも薄れもしないという、甦りの信仰へと通じていくものでもあります。
ここまで書き連ねてきて、誤字がないか読み返してみますと、ところどころ過去形になっていることに気付かされます。敢えて書き換えはしませんが、私たちに授かっているキリスト教信仰に於いては、過去のものを過去にしない、いつでも今に、そしてこれからにつながっていく、今を、これからを創り出していくことを大切にします。だからこそ「お仕舞い」「終焉」「お別れ」というものを根本的に否定してきました。改めてキリスト教の信仰、霊性の素晴らしさ、深さを思い知らされる気がします。
最後に私の心からのメッセージを代弁している歌詞(1980年「さよならの向こう側」)を記して筆を置きます。
「Thank you for your kindness, thank you for your tenderness, thank you for your smile, thank you for your love, Thank you for your everything さよならのかわりに」
ありがとうございました。どうぞ、皆さまお健やかに!
(香蘭女学校チャプレン  高橋 宏幸)