チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2019年12月01日掲載

“最も小さい者”の生まれ   

   

ロシアの文豪トルストイ(Lev Nikolaevich Tolstoi、1828-1910)は、福音書のみ言葉から一つの童話を書いています。元々は『愛のあるところに、神様もある』という民話ですが、『靴屋のマルティン』という名前の童話として知られている物語です。
靴屋のマルティンは、人もよく仕事も確かな男でした。ところが、妻と子どもたちを相次いで亡くし、一人ぼっちになってからは、生きる望みを失い、神様を恨みました。教会にも行かなくなり、早く死なせてくれと祈る毎日でした。そのある日、マルティンと同郷の老人が訪ねてきて“お前に読み書きができるのなら聖書を読め”と強く勧めます。聖書を読むたび、マルティンは自分の生き方と照らし合わせて、深く考えるようになりました。そんなある夜、福音書を読むうちに眠り込んでしまったマルティンの耳の後ろから、不意に声が聞こえます。“マルティン、マルティン、明日は通りを見ていなさい。私が行くから。”キリストの声のようでしたが、姿は見えませんでした。
あくる朝、マルティンは夕べのことを気にかかって、それとなく窓の外に目をやりながら仕事をしていました。しかし、いっこうにキリストが現れる気配はありませんでした。その代わり、目に入ったのは、体を痛めた老人スチェパーヌイチが、雪かきの途中でくたびれ果てて佇んでいる姿でした。マルティンは“あの男にお茶でもごちそうしてやるか”と思い、スチェパーヌイチを招き入れます。そして、一杯飲んでもまだ欲しそうにしている老人に、何杯でも注いでやりながら、聖書の話をして聞かせるのでした。次にマルティンが家に招きいれたのは、寒い中を夏物の服を着て、赤ん坊を抱いたまま震えて立っていた貧しい女性でした。彼は、朝から何も食べていないこの母親に食事を取らせ、赤ん坊をあやし、古い上着と小銭を持たせてやります。その次に彼が出会ったのは、リンゴが入った籠を持った老婆と、そのリンゴを盗もうとした少年でした。少年を警察に連れて行くといきまく老婆をなだめ、逃げようとする少年を引き止めて老婆にあやまらせ、マルティンは少年のためにそのリンゴを買ってやりました。
その晩、いつものようにマルティンが仕事を片付け、棚から聖書を取り出して机の上に置きました。福音書を読み始めようとしたとき、昨夜のようなことが起こりました。薄暗い部屋の片隅に人が立っている気配に気づきます。“マルティン、マルティン、私に気づかなかったのか。”という声が聞こえてきました。さらに“あれは私なんだよ”という話と同時に、暗い片隅からスチェパーヌイチが進み出てにっこり笑ったかと思うと、雲のように消えてしまいました。また“あれも私だよ”という話と同時に、赤ん坊を抱いた女性が現れました。女性がにっこり微笑み、赤ん坊が笑い出したかと思うと、これもまた消えてしまいました。“それから、あれも私なんだよ”という声が聞こえて、老婆とリンゴを持った男の子が出てきて、二人ともにっこり笑ったかと思うと、やはり消えてしまいました。マルティンの心は、不思議な喜びで満たされました。
その後、聖書を開いて福音書を読み始めると、こう書いてあったのです。“お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた … はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。”(マタイ25:35-40)マルティンは、主が確かにおいでになったことをこの御言葉によって気づかされたのでした。
もう直ぐクリスマスになります。ご存じのようにイエス・キリストは、立派な宮殿ではなく、鼻をつまみたくなるような悪臭漂う汚物だらけの家畜小屋にお生まれになりました。汚物だらけの家畜小屋は、人間の罪と汚れと弱さなどを象徴する空間ですが、キリストはそういう所に来られたのです。つまり、キリストは“最も小さい者”の姿をお取りになって、この世の“最も小さい者”の中にお出でになったわけですが、これこそキリスト教の究極的な神秘でありましょう。そして、今もキリストは“最も小さい者”である私たちの中に、ことに一人ひとりの魂の子宮にお出でになります。そのように私たちは、キリストを見いだせる人、という恵みに与るようになるのです。どうか、そういう意識を持って、これからお出でになるキリストに相応しい住まいを整え、まさに自分を通してキリストを迎える私たちになりますように願います。

香蘭女学校チャプレン  成 成鍾