チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2020年03月01日掲載

「だれがいちばん偉いか」

私たち人間の罪ともいえる悲しい現実は比較することにあると言えます。なんでも比べることで優越感を持ったり劣等感を持ったりするのです。聖書の中にも弟子たちが「だれがいちばん偉いか」を議論している場面があります。イエスさまが弟子たちに「何を議論していたのか」とたずねると、弟子たちが黙り込んでしまうのです。恥ずかしかったのでしょう。おそらくイエスさまは様子から弟子たちが何を話していたのかわかっておられた。それで、12人の弟子にこう話し始めます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。いちばん偉くなりたい者は、むしろ仕えるもの、要するに奴隷や召使のようにすべての人に奉仕しなさいということです。イエスさまの答えは、人間的な思いに捕われていた弟子たちにとって思いもかけないものでした。この弟子たちの姿は私たちの現実でもあります。私たちも弟子たちのように背比べをするように誰が一番偉いかといった比較をすることがあるからです。イエスさまの言葉には、私たちの常識や価値観をひっくり返すような強い力が込められています。
宮沢賢治童話集『注文の多い料理店』の中に『どんぐりと山猫』という短編があります。『どんぐりと山猫』には、どんぐりたちが「だれがいちばん偉いか」を争う裁判の様子がユーモラスに描かれています。もう何日も山猫裁判長の前でどんぐりたちが「だれが一番偉いか」を争っているのです。「頭のとがっているのがいちばんえらい」「いや、まるいのがいちばんえらい」「いやいや、大きいのがいちばんえらい」「そうじゃない、せいの高いのがいちばんえらい」「押しっこの強いものがえらい」など、どんぐりたちは互いに主張して譲らず、裁判は収拾がつきません。山猫に呼ばれた少年の一郎が、山猫裁判長に、「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」ということをアドバイスします。それ受けて山猫が、「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」と申し渡しをすると、どんぐりたちは「しいん」と静かになり、かたまってしまいます。聖書の中の弟子たちみたいです。宮沢賢治は、この童話を解説して、必ず比較されなければならない子どもたちの内側からの叫びだ、というようなことを言います。この童話が書かれたのはいまから100年も前の大正時代ですが、当時も子どもたちは「比較される」という状況にさらされていたことがわかります。勉強ができるかできないか、頭が良いか悪いか等、子どもたちが絶えず比較にさられているのは当時も今も変わりません。『どんぐりと山猫』に書かれている判決の言葉は、「比較し合う」ということ自体への皮肉、否定であると言えます。学校のテストの結果の優劣というのは、子どもたちの価値を決定する本質的なものではない、ということです。しかし今は学校もどれだけ有名な大学に合格者をだしたかが学校の良さを決めるといったことが当たり前です。一郎少年の言葉は、そういう大人たちが作っている社会の常識や価値観をひっくり返そうとするものです。私たちの社会がすべてを比べて判断するという現実は変わらないでしょう。しかし「いちばんかたちがなっていないものがいちばんえらい」と申し渡して、どんぐりたちを静かにさせる価値の逆転はまさに宗教、そしてイエスさまの発想です。

香蘭女学校チャプレン  杉山 修一