チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2022年08月01日掲載

「深い淵の底から」詩編130編1~2節


 香蘭女学校では毎朝の礼拝のときに、生徒さんのご家族にお亡くなりになった方がおられるとその方の魂の平安と残されたご家族へ慰めが与えられることを祈っています。みなさんの中には身近な家族を失った経験を持っている人もいると思います。死はよくわからないし、考えてもどうにもならないから、せめて生きている間楽しく暮らす、それでよい、と考える人もいるようです。旧約聖書の詩編130編にこういう言葉があります。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼び求めます。主よ、この言葉を聞き取ってください。嘆き祈る私の声に耳を傾けてください。」深い淵とは奈落の底に落ちていくような恐ろしい場所です。この悲痛な嘆きの声を上げているのは詩編の作者ですが、ある意味で私たちの現実でもあります。以前、知り合いのお母様が、愛するわが子を失って1年ほど経って私にこんなメールを送ってこられました。「○○ちゃんとの別れが気になります。あと数日でお墓に入ると思うと一緒に入ってあげたい気持ちになります」。愛するわが子を失ってすでに1年が経ち、遺骨になったわが子をずっとそばにおいていたのですが、いよいよお墓に納めなければならない時が来たのです。「一緒にお墓に入ってあげたい」との思いは愛する子は死んでしまったけれども自分の中では生きている、それで一人でお墓に入るのは淋しいだろう、一緒にお墓にまでついていってあげたい、そういう切ない母親のメールでした。深い淵の底から、叫ぶようにその子の死を悲しみ、ずっとずっと繋がっていたいという思いに溢れていたのだと思います。

 死は恐ろしいことですし、死に向かう痛みや苦しみは本当に辛いことに思えます。しかし、そういう痛み苦しみは死んでしまえばなくなるはずなので、本当の死の恐ろしさは、実は関係が失われる、繋がりが断たれるという事ではないかと思うのです。若い人が片時もスマホを離さず、ラインやSNSでやり取りしている姿によく出会います。その姿をみると結局、人間は誰かと繋がっていたい、一人ぼっちの孤独の暗闇には耐えられない、そんな風に感じます。こういう人間の本質が死という関係が絶たれる出来事に遭遇しても、亡くなった人を祈りの中で思い起こし、その人を覚え、その人との繋がりの中で生きていたいと思わせるのかもしれません。キリスト教は復活、甦りという事を中心に置いた宗教ですが、それは死んだ人が物理的に生き返るという事ではなくて、生きている私たちの中に勇気、希望、そして愛することの喜びを伝える存在として甦ってくることだとも言えます。これからも学校の礼拝では生徒のご家族に亡くなった方があったときに、その方の魂の平安を祈り、残されたご家族のために祈りを捧げていきます。亡くなった方は私たちが直接には知らない人がほとんどです。しかし、祈りを介して私たちはそのかたと繋がることができるのです。祈りを通じてその人が生きていたことの意味や残された生徒とそのご家族への愛を理解し、感じることができるのです。詩篇130篇の作者のように深い淵の底から私たちは叫ぶことがあります。苦しみ、悲しみ、病、不幸、あらゆる困難の中で叫びながら生きていくのです。その時、心待ちしていたライン、メールの着信音が聞こえるように、私たちの叫びに神さまは応答してくださるのです。与えられた尊いいのちを大切に生きていきましょう。


香蘭女学校チャプレン  杉山 修一