チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2023年08月01日掲載

「地の塩、世の光」


 よく知られている聖書の言葉に「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である。」というマタイによる福音書5章13節以下の言葉があります。この「地の塩・世の光」という聖書箇所は多くのキリスト教学校がスクールモットーや校訓として用いていることでも有名です。青山学院、東北学院、関西のヴォーリーズ学園、カトリック学校の光塩女子学院、サレジオ学院などキリスト教学校ではこの聖書箇所を生徒また学生の人間としての成長の理想型として受け止めているようです。

 「あなた方は地の塩である」、「あなたがたは、世の光である」。ここには具体的に何をしなさいということは何一つ書かれていないのですが、大変わかりやすい言葉です。私たちは塩がどういうものか、光がどういうものか日々の生活の中でよく知っているからです。塩は味付けをするだけでなく、腐敗を防ぎ、清める働きがあります。光は言うまでもなく暗闇を明るくする源です。この「塩」と「光」には異なる性格があります。「塩」は自らを見えないように溶けて姿はなくなる。しかし、塩の効き目がそこにはある。光はすべてのものを照らしてはっきりと見えるようにします。そこに光があることが見えるということ前提です。昼は太陽の光、夜はともし火として輝きながらわたしたちの世界を明るくするのです。この現れ方の全く違う「塩」と「光」がイエスさまに従う人間のあるべき姿として語られているのです。しかし、聖書の言葉は「あなたがたは地の塩になりなさい」、「世の光になりなさい」とは言わず、「あなた方は地の塩である」、「あなた方は世の光である」と、断定していることがわかります。努力して塩になりなさい、光になりなさいと言っているということでなく、イエスさまに従う者はすでに「塩」であり「光」なのだということです

 「塩」と「光」は異なる現れ方をすると言いましたが、塩がその姿を消して目に見えなくなることで塩としての働きをするというのは、あたかも自分の存在が見えなくなる中で大切な働きをするということで、同じマタイによる福音書に「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とあることに通じるように思います。それはまたひとり、部屋の中で誰にも知られずに他者のために「祈る」ような営みといえるかもしれません。誰の目にも見えない、しかしその祈る働きによって、祈られる人がより良く生きることが可能となる。そう言う匿名化された働きが「塩」の役目です。反対の「光」はその働きが目に見える、すべての人にわかる働きといえます。社会の底辺や世界の困難の中で苦しむ人への目に見える働き、ボランティアであれ、支援活動であれ、世界が必要とする、社会が求める「愛と平和」を実現する様々な営み、働きはみな「光」の働きといえます。わたしたちの学ぶ香蘭女学校は目に見えない地の塩としての働きを毎日、毎日の礼拝、祈りの中で続けています。他者のために祈り続ける、祈られている人は気づかなくても、祈り続ける。そこに「地の塩」の働きがあります。また「世の光」としての働きを、伝統的なバザー、ボランティア活動などの奉仕活動を通じて実践してきました。香蘭女学校もまたこの「地の塩・世の光」としての生き方を大切にしてきたのです。わたしたち香蘭女学校に連なるものはこれからも「塩」そのものであるイエスさま、「光」そのものであるイエスさまとの出会いを大切にして「地の塩・世の光」として生きていきたいと願います。


香蘭女学校チャプレン  杉山 修一