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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(4)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。

これを記念して、教職員、在校生。保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

 

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第1回です。

 

 

《香蘭女学校の歴史 1 香蘭女学校創立に至るまで》

 

幕末の切支丹禁制が続いていた時代、後の香蘭女学校が属している世界の聖公会に於いても、日本への宣教に向けての大きな動きが始まりました。

立教学院や立教女学院の創立者である米国聖公会のチャニング・ムーア・ウィリアムズ司祭(32歳)が来日したのは1859年6月のことです。聖公会の実質的な日本宣教の始まりと言ってもよいでしょう。1864年に逝去した米国聖公会の初代中国・日本伝道主教のW.J.ブーン師の後任にウィリアムズ司祭が選出され、1866年10月に第2代中国・日本伝道主教のウィリアムズ主教(39歳)が誕生しました。

一方、聖公会の本国である英国からは、1860年にC・M・S(教会伝道協会あるいは宣教協会)の香港ビクトリア教区の初代主教となったジョージ・スミス主教が来日したのが最初で、その後実質的に日本伝道の宣教師として来日したのは、1869年に長崎に上陸したC・M・SのG.エンソー司祭(27歳)からです。そして、英国のもう一つの伝道団体であるS・P・G(福音宣布協会あるいは福音伝播協会)からは、1873年にアレクサンダー・クロフト・ショー司祭(27歳)がW.B.ライト司祭とともに横浜に上陸したのがその最初です。香蘭女学校はS・P・Gが創立した学校ですから、日本に於ける香蘭女学校の直接の原点は、このショー師の来日であると言えます。

ショー司祭は横浜上陸後すぐに東京へ向かい、赤坂の霊南坂にあった陽泉寺に住みます。その後、面白いことに1875年頃福澤諭吉の邸宅の敷地内の建物に仮寓していました。これは、福澤諭吉がキリスト教を庇護していたことを示す事例であるだけでなく、後の香蘭女学校と慶応義塾との間の深い関係の嚆矢と言えるかもしれません。ショー司祭はライト司祭と一緒に聖教社神学校を1879年に設立しますが、ショー師は聖教社に通う学生たちを一般的知識を学ばせるために慶應義塾にも通わせています。ショー司祭は福澤邸仮寓のあと、後に聖公会の主教館が作られた芝・栄町に転居します。

後に創立される香蘭女学校は、英国人女性宣教師が多くその教育を担っていましたが、英国S・P・Gから最初に派遣された宣教師が、1875年11月に来日したアリス・エレノア・ホア(30歳)です。ミス ホアも翌年2月から福澤諭吉の邸宅2階に住み、少女たちの塾を開きます。さらにその翌年には、ショー司祭の新居の敷地内の家に転居します。このミス ホアは、後に気に懸けていた2人の老齢女性の面倒を個人的に自宅でみていたことがありました。そして同じくS・P・Gの女性宣教師として来日したエリザベス・ベシー・ソントンと協力し、1895年10月に芝に老人収容施設を開設します。これが後の聖ヒルダ養老院で、現在も香蘭生が毎年ボランティアに出かけているベタニヤ・ホームの前身です。またこの聖ヒルダ養老院のお年寄りのために何かできることはないだろうかと始められたのが、今年の11月23日に115年目を迎える香蘭女学校のチャリティー・バザーです。そして、ミス ホアと協力して養老院を作ったミス ソントンこそ、香蘭女学校の創立期を支えた大功労者です。

さて、1883年10月、英国カンタベリー大主教は英国聖公会の初代日本主教としてC・M・SのA.W.プール司祭(31歳)を選任し、プール主教は12月に来日し主教として就任しました。ちなみにこのプール主教は、現在大阪にある聖公会の学校・プール学院が校名に冠している宣教師です。ところがこのプール主教はすぐに病気を得て、やむなく1884年9月帰英、翌年逝去します。この後任に、1886年2月、インドに派遣されていたS・P・Gのビカステス司祭(35歳)が選出され、4月来日し主教として就任、まずは芝・栄町のショー司祭宅に落ち着きました。ビカステス主教とショー司祭の生涯続いた信頼関係がここから始まります。

ここに、後の香蘭女学校の創立者の日本での活動が開始されます。

 

(写真は左より、ショー司祭、ミス ホア、プール主教)

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