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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(5)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。

これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

 

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第2回です。

 

 

《香蘭女学校の歴史 2 創立者エドワード・ビカステス主教》

 

病気で退任した英国聖公会C・M・SのA.W.プール主教の後任に、英国聖公会S・P・Gのエドワード・ビカステス司祭(35歳)が選出され、来日し英国聖公会第2代日本主教として就任したのが1886年のことでした。

エドワード・ビカステスは、1850年6月26日、英国ノーフォーク州の田舎町バニングハムで生を受けました。父であるヘンリー・ビカステスは、ロンドン近郊の田舎町ハムステッドの教会で30年間奉仕を続け名牧師として知られた人で、1885年にエクセター教区主教に聖別任命されています。

敬虔さと強い愛情に結ばれた両親、大勢の兄弟、姉妹たちの中でエドワードは育ちましたが、特にエドワードが父に抱いていた尊敬に溢れた親愛の情は美しく、後に戦争になった時に父子はそれぞれ主教として地球の反対側にいましたが、多忙な生活の中で毎週愛情一杯の手紙の遣り取りをしたそうです。なお、エドワードの母は1872年に逝去し、その後父ヘンリーは再婚しましたが、この夫人も敬虔な人物で前夫人の遺児たちを大切にしました。

エドワードは1862年に家から3マイルほど離れたハイゲートの学校に入学し、そこで7年間学びます。最終学年では学業では首席、クリケット部の優秀なメンバーでもありました。1869年にケンブリッジ大学のペンブローク校に入学。1873年にB.A.の学位を取得し、翌1874年には神学に於いて優秀賞を得ました。B.A.学位取得の年の降臨節にはロンドン主教によって執事職に任ぜられ南ハムステッドの聖三一教会の副牧師となりました。

ペンブローク校では特待研究者として神学科の講師に選ばれ働いていましたが、その時インドへの熱心な宣教師T.V.フレンチ司祭と出会います。この出会いによってエドワードは、自ら志願して1877年に「ケンブリッジ大学デリー伝道団」の一員としてインドに派遣されることになります。インドでの5年間には多大な働きがありましたが、1882年に赤痢に罹り帰国を余儀なくされました。

帰英し療養してかなり回復した頃に、プール主教の後任としてカンタベリー大主教ベンソンの胸中に真っ先に浮かんだのが、このエドワードでありました。1886年2月2日、ロンドン聖パウロ大聖堂に於いて主教に按手聖別され、3月6日には英国を出発、4月9日に長崎に到着、同24日には大阪聖三一教会で信徒按手式を司式し、5月3日には早くも大阪で「英国聖公会在日C・M・S宣教師年会」を開催します。米国、英国C・M・S、英国S・P・Gの3ミッションが別々に伝道していた聖公会を、米国聖公会のウィリアムズ主教と手を取り合って、翌1887年に一気に一つにまとめ上げて日本聖公会という組織に作り上げたS・P・Gビカステス主教の、C・M・Sへの働きかけの第一歩です。主教は同じく5月には東京入りして、まずはS・P・Gのショー司祭宅に落ち着きました。休むことなくすぐに、日本語の学習に本格的に取り組むとともに、日本の教会の教務を研究し、日本の教会の法規の草案作成にとりかかります。

エドワード・ビカステス主教の人柄を、当時の主教を直接知る英国人旅行家イザベラ・バード(1831~1904)は、「深みと優雅とを併せ備えた学識や博学ぶり、キリスト教会史や教義についての驚くべき知識、東洋の信仰に関する精緻で知的な素養、見事な対話能力、鋭い洞察力や鋭敏さ、見解の広さ、鮮烈な英国国教徒らしさ、生真面目さ、日本の教会の将来に関する広い見解、献身的で一途な努力、伝道活動への専心、無私な日常生活、子供たちを愛する気持ち、冗談好き、他者への思いやり、理知的な誠実さ、純粋で裏表のない生き方……」など、筆の限りを尽くして愛情と尊敬をもって紹介しています。

 

(写真は左より、ビカステス主教とその家族、ビカステス主教、イザベラ・バード)

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