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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(9)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第5回です。

《香蘭女学校の歴史 5 創立当初の教育を担った女性宣教師たち》

この歴史シリーズの第3回でご紹介したように、初代の校長は今井壽道先生です。1863年10月2日、東京芝葺手町の沼田藩邸で、医師の今井玄斎の次男として生まれた今井壽道は、父が逝去した4歳のころには既に論語を読み、十八史略を暗唱、百人一首を暗記し、神童の呼び声が高い子供だったといいます。10歳の頃には神谷町の岸本小学校の助教をし、その頃芝栄町で伝道を始めたアレクサンダー・クロフト・ショー宣教師(前出)に出会いました。そして1875年から慶應義塾の福澤諭吉邸に仮寓していたショー宣教師のもとに出入りし、ショー宣教師が福澤邸から栄町に転居した時には、今井壽道もショー宅に寄寓しました。1888年香蘭女学校創立の際、今井壽道が通訳を担当していたビカステス主教から校長を命ぜられました。弱冠25歳の時です。1889年聖安得烈学院教授兼務、司祭按手、そして1902年聖教社神学部校長就任を機に香蘭の校長を辞任しました。1919年9月3日永眠。享年55歳。
また、創立当初の香蘭を支えた女性宣教師の代表は、先述の通りミス エリザベス ソントンでした。ただ、その他にも多くの女性宣教師たちが香蘭女学校で教鞭を執りました。今井壽道初代校長は聖公会で重要な役割を担っていたため、香蘭女学校では新約聖書の講義をする時間をとる位が精一杯でした。その今井校長に代わって、香蘭女学校の創立当初の時期、実質的な校長の職務を行っていたのはミス E・ブルックでした。朝のお祈りを捧げる担当も、生徒の出席をとるのも、ミス ブルックが行っていました。
1894年にミス メイプル・リカーズが来日してからは教室が増築され、校舎の2階に広い畳敷きの床の間付きの日本間、この部屋は作法室兼お花や絵の教室として使われることになりましたが、それまでの1階の教室に代わってこの2階の日本間で、ミス リカーズによって毎朝の礼拝が守られ、また「おとめさん」「おとくさん」……とミス リカーズによって出席がとられるようになりました。ミス ブルックに続く実質的校長がこのミス リカーズでした。体が大きく、またとても威厳に満ち、高い見識と風格を示した先生で「ミス リカーズは近づき難いまでの格調を持った女丈夫ともいうべき方」だったと伝えられています。ミス リカーズの英語の授業は大変厳しいものだったようで、当時の生徒たちは後に「一同が泣きの涙で勉学いたしました」と振り返っています。怒ると足をガタガタさせて大きい声を出すので、怖がっている生徒が多かったと。しかし、生徒のうちの一人が持っていた薔薇を見つけたミス リカーズがニコニコして、上手な日本語で「まあ、きれいな薔薇の花ですね。私の国を思い出します。」とおっしゃり、生徒が「ミス リカーズ、これ、差し上げましょう。」と渡したら大変喜ばれたという逸話も残っています。午後にはしばしば編み物のお稽古をしてくれたのもミス リカーズで、花の透いたような細かい模様の編み物を生徒たちは教わったりしていました。このミス リカーズは、ミス ソントンの後継者と言ってよく、香蘭女学校だけでなく、ミス ソントンが始めた聖ヒルダ養老院や聖ヒルダ女子神学部の責任者などもつとめ、1913年に離日しました。
このミス リカーズとほぼ同時期に香蘭女学校で教育に携わった宣教師に、ミス フローラ ホーガンがいます。1892年に来日し、香蘭女学校の実質的な校長や聖ヒルダ養老院の責任者、また聖ヒルダ神学部・手芸部の責任者などをつとめました。太いジェーペンでA、B、C、……と、小がらな体をいっぱいに使ってペンの使い方から教えてくれた、看護法も教わったと、ミス ホーガンについての思い出が伝わっています。1922年離日。
当時の女性宣教師の先生の中でも若く人気があったと伝えられるのが、ミス エディス ハミルトン、後のシスター スペリアです。1908年に来日し、若くキビキビしていて、ピンクや白、ブルーの洋服が生徒の目を引いた先生で、ある卒業生は生徒時代、ミス ハミルトンにとても熱を上げて、先生の教室からの帰り道を待ち伏せしてご挨拶をしたと当時を振り返っています。1913年に離日。
教頭をつとめていたミス ヘレン ニューマンは、1905年に32歳で来日し、香蘭女学校に奉職しました。朝、出席をとるのは教頭であるミス ニューマンのつとめでしたが、生徒たちは一人ひとり呼ばれると「present」か「here」と返事をし、欠席の人の分は級長が「absent」と返事をしていたそうです。当時は寄宿舎で夜会が時々行われましたが、生徒とともにミス ニューマンもゲームなどを楽しみ、夜会最後のプログラムであるダンスの時は、ミス ニューマンが一人でピアノをずっと弾き続けていた。良家の生まれで、発音のきれいな英語を話し、また優しい先生で或る生徒が中耳炎になった時は家まで訪ねてきてくれた。生徒の親はとても驚いたけれど、畳に座ることができないからと踏み台を出してきて腰掛けていただいたというような逸話が残っています。

(写真は左上より、今井壽道初代校長、ミス ブルック、ミス リカーズ、ミス ホーガン、ミス ハミルトン、ミス ニューマン)

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